ダレス(読み)だれす(英語表記)John Foster Dulles

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ダレス」の意味・わかりやすい解説

ダレス(John Foster Dulles)
だれす
John Foster Dulles
(1888―1959)

アメリカの政治家。ワシントン市生まれ。プリンストン大学、ジョージ・ワシントン大学に学ぶ。1911年弁護士としてサリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に入り、1919年のパリ講和会議、1945年の国連創設会議にアメリカ代表団の法律顧問として出席。1950年国務省顧問となり、トルーマン大統領の特使として対日講和を推進し、翌1951年のサンフランシスコ対日講和条約締結に大きな役割を果たした。

 大統領選挙期間中の1952年に、トルーマン民主党政権の対ソ封じ込め政策を消極的かつ現状維持的であると批判し、大胆でより積極的な「巻返し(ロール・バック)政策」を提唱した。この提言が共和党選挙綱領に採用され、1953年共和党のアイゼンハワー政権が成立するとともに国務長官就任。国務長官在任中、外交政策を進めるうえで主導的な役割を果たし、強硬な反共十字軍的外交を展開したことで知られる。1954年1月、「巻返し政策」の具体化として「ニュールック戦略」または「大量報復戦略」とよばれる政策を打ち出し、核兵器に依存した米軍事力の強化と、中ソを包囲する反共軍事同盟網の形成を企図した。ヨーロッパ共同防衛軍の設置を意図したヨーロッパ防衛共同体(EDC)の創設はフランス国民議会の反対により流産したが、アジアにおいては、1953年に韓国、1954年に台湾とそれぞれ相互防衛条約を締結するとともに1954年には東南アジア条約機構SEATO(シアトー))を成立させて中国を包囲する反共軍事同盟網を実現させた。そしてこの過程で、1954年にはインドシナにおけるフランス軍の敗北を阻止するため米・英・仏などの諸国の統一行動による軍事介入を提唱し、さらに1955年の台湾海峡をめぐる危機にあたっては原爆の使用を示唆するなど、危機に直面した際、いわゆる「戦争瀬戸際」政策を推進した。1959年4月病気のため辞任。同年5月24日死去。

藤本 博]

『J・R・ビール著、皆藤幸蔵訳『ジョン・フォスター・ダレス』(1957・時事通信社)』『J・F・ダレス著、大場正史訳『戦争か平和か』(1958・鳳映社)』


ダレス(Allen Welsh Dulles)
だれす
Allen Welsh Dulles
(1893―1969)

アメリカの政治家。ニューヨーク州ウォータータウン生まれ。アイゼンハワー政権の国務長官J・F・ダレスの弟。プリンストン大学に学び、1916年から外交官として活躍。1918~1919年のパリ講和会議に出席。弁護士業に一時従事したのち、第二次世界大戦期にCIA(中央情報局)の前身であるOSS(戦略活動局)に入る。1951年CIA副長官、1953年アイゼンハワー政権の下でCIA長官に就任。彼の在任中CIAは、世界各地の左翼政権の転覆を画策し、1953年にイランのモサデク首相失脚、翌1954年にはグアテマラのアルベンス政権転覆に関与した。1961年に辞任し、弁護士業に復帰した。

[藤本 博]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ダレス」の意味・わかりやすい解説

ダレス
Dulles, Allen Welsh

[生]1893.4.7. ニューヨーク,ウォータータウン
[没]1969.1.29. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,外交官。 J.F.ダレスの実弟。 1914年プリンストン大学卒業。 1922年国務省近東局長。 1926年国務省を退き,サリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に勤務。 1953~61年中央情報局 CIA長官。在任中の 1960年5月アメリカの偵察機 U2型機がソ連で撃墜され (→U-2型機事件 ) ,また 1961年4月キューバの反カストロ軍のコチノス湾 (ピッグズ湾) 上陸侵攻が失敗する事件 (→コチノス湾侵攻事件 ) が起こったが,これらに CIAが関与していたといわれ注目された。主著"The Craft of Intelligence" (1963) ,"The Secret Surrender" (1966) 。

ダレス
Dulles, John Foster

[生]1888.2.25. アメリカ,ワシントンD.C.
[没]1959.5.24. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの外交官,政治家。 1908年プリンストン大学卒業後,ソルボンヌ大学に留学。 11~49年サリバン・アンド・クロムウェル国際法律事務所に勤務。その間 44年のダンバートン・オークス会議,45年の国連創設会議に参加。 50年国務省顧問に任じられ,対日講和条約の交渉などにあたり,53年アイゼンハワー政権の国務長官に就任。大量報復戦略,せとぎわ政策巻返し政策など,強硬な反共外交を主張しタカ派の代表のようにみられたが,実際の政策はかなり柔軟であった。 59年4月癌のため国務長官を辞任。主著『戦争と平和および変革』 War,Peace and Change (1939) ,『戦争か平和か』 War or Peace (50) 。

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