ここでは主としてマス・メディアに対する一般市民の側の権利概念をさす場合を取り上げる。
アクセス権という権利概念は、イギリス法では比較的早い時期から認められていたが、この権利は、「……へのアクセス権」right of access to ……というように、「……」の部分にその客体となる目的語を伴って使われるのが普通である。たとえば「なぎさへのアクセス権」right of access to beaches(今日の日本の議論でいえば、入浜(いりはま)権的なもの)、「子供へのアクセス権」right of access to children(子供との面接権)、「公的記録へのアクセス権」right of access to public records(公的記録閲覧権)など、その用例は枚挙にいとまがないといえる。
しかし、日本で、今日、アクセス権という概念で主として論じられているのは、その目的語として「マス・メディア」や「情報」を伴うものである。とくに、「マス・メディアへのアクセス権」right of access to mass mediaという主張が、アクセス権ということばへの関心を高めたとみてよいであろう。そこで、このマス・メディアへのアクセス権の生成や展開などについてみることにする。
[堀部政男]
近代社会における言論の自由は、国家からの言論の自由、国家によって言論を抑圧されない自由を意味し、言論の自由をめぐる緊張関係は、国家権力と言論主体との間に存在していた。これは、言論の自由における二極構造と把握することができる。ここでは、メディアと市民は一体となって国家による言論抑圧と闘ってきた(このような意味における言論の自由の重要性は、現代においても強調されなければならない)。ところが、資本主義の発展に伴って、メディアもマス化し、集中化し、独占化の傾向を強めるようになった現代社会においては、市民一般はマス・メディアから疎外され、情報の「送り手」と「受け手」という二つの階層が生まれるに至り、しかも、両者の間には、資本家と労働者の関係にみられるように、一般的には、立場の互換性がなくなってきている。ここでは、元来、言論の自由の享有主体として一体のものと考えられてきたメディアと市民の間に一定の対抗関係が生じるようになり、現代の言論の自由をめぐる緊張関係は、国家とメディアと市民の間に存しているとみられる。このことは、かつての国家対メディア=市民という二極構造から、国家対メディア対市民という三極構造への移行として特徴づけることができる。
この三極構造のなかのメディアと市民の間の対抗関係は、種々の形で出てきている。たとえば言論の自由の本来的享有主体である市民が、大量的な伝達手段であるマス・メディアに対して自己の意見をなんらかの形で伝達するよう要求しても、マス・メディアが自らの言論の自由や編集権、編成権を主張して、市民のアクセスを拒絶することがあるので、両者の間に対立意識が生まれることになる。そこで、市民の側がマス・メディアへアクセスする権利があると主張して、これを法的に承認するよう求めるようになった。そのようなアクセス権のうち、とくに、マス・メディアが特定の者を批判するような場合に、それに対する反論を掲載、放送するよう要求する権利が反論権right of replyである。諸外国の立法例や判例のなかには、事実の誤りの訂正を求める権利や印刷メディアとは区別される放送メディアについて公平の見地から反論権などを認めているものもある。日本では、1970年代中葉に至って各方面で議論されるようになった。マス・メディアのアクセス権は、従来の言論の自由の観念に対してコペルニクス的転回を迫るものであると評されている。
[堀部政男]
『堀部政男著『アクセス権』(1977・東京大学出版会)』▽『堀部政男著『アクセス権とは何か』(岩波新書)』▽『J・A・バロン著、清水英夫・堀部政男・奥田剣志郎・島崎文彰訳『アクセス権――誰のための言論の自由か』(1978・日本評論社)』
アクセスとはアプローチ(接近)という意味に近いが,法律用語としてのアクセス権はむしろ入手,利用する権利のこと。例えば,公共用地利用権や裁判を受ける権利の際,古くからアクセスという言葉が用いられてきた。しかし,最近はおもにコミュニケーション関係において使われる。その第1は情報公開に関するもので,公文書などの閲覧,謄写を求める権利を〈公情報へのアクセス権〉と呼んでいる。それは法的な権利であり,公共機関の裁量で行われる情報提供サービスとは異なる概念とされている。
第2の場合は〈マス・メディアへのアクセス権〉である。これは,1960年代後半アメリカのマスコミ学者バロンJerome A.Barronらによって唱えられたもので,憲法の保障する言論・出版の自由の現代的解釈として脚光を浴びた。すなわちバロンらによれば,アメリカ合衆国憲法修正1条の言論・出版の自由はだれでもがアクセスできる〈思想の自由市場〉理念に立脚しているが,独占的マス・メディアの支配する現代においては,まったく非現実的なものとなった。そのような状況の下では,非体制的ないし反体制的な意見や少数者の主張は構造的に締め出されるのだから,意見広告や反論その他の方法で一般市民がメディアに登場する機会が法的に保障されなければならないとする。
この主張は放送メディアにおける反論権として,合衆国最高裁判所で認められることになったが(1969,レッド・ライオン放送局事件),新聞紙上での反論権は逆に否定された(1974,マイアミ・ヘラルド事件)。日本では1974年に起きたサンケイ新聞意見広告事件で,裁判所は共産党の主張するアクセス権を否定した。しかし,現代の新聞や放送は開かれたメディアを目ざし,さまざまの方法で(意見広告,投書欄の拡充,紙面批判,アクセス番組,インターネットなど),読者,視聴者の実際上のアクセスを保障しようと試みている。
執筆者:清水 英夫
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…離婚後,親権または監護権を有しない親が,別れた子と面会し,あるいは手紙,電話などを通じて交渉する権利。訪問権ともいう。 面接交渉権は欧米諸国では古くから法律上認められてきた(たとえばイギリスでは1839年法以来)権利である。しかし日本では,従来,〈家〉制度的な考え方から,離婚により子と別れても,陰ながら子の成長を見守ることが真の愛情ある親の姿とされ,離婚後の親子の接触はほとんど問題とされなかったため,法律も面接交渉権を正面から認める規定をもたない。…
…マス・メディアによって批判,攻撃,その他なんらかの形で言及された者が,当該のマス・メディアを通じて反論を行う権利。今日マス・メディアの巨大化・集中化により,送り手から疎外され,受け手の立場に固定されてしまった市民に対し,マス・メディアへの参加を保障する新しい権利として主張されるようになったアクセス権right of accessの一類型として,最近注目されるようになった。反論権に対する最近の関心を喚起する契機となった代表的な事例として,アメリカで,あるラジオ番組によって批判を受けた者が,連邦通信法の規定する〈公平原則fairness doctrine〉に基づいて反論放送時間を要求し,連邦最高裁判所で認められたレッド・ライオン放送局事件(1969)がある。…
…アメリカの実態は日本と似かよっており,発行者に権限が集中しているが,ヨーロッパ諸国では,日本の包括的・一元的な考え方とは対照的に,編集方針のレベルに従って編集責任者に独自の決定権を認めたり,ジャーナリストが自己の政治的信条にもとる記事の執筆を,不利益を被ることなく拒否できる権利を保障するなど,権能の範囲と行使者について多元的な関係を実現している。このほか,日常受け手の立場に閉じこめられている一般市民が,マス・メディアを通じて自己の見解を公表する権利を求める〈アクセス権〉の観念の登場は,これがマス・メディアの〈編集権〉を制約する主張を含むため,両者の関係をどう考えるかが,将来の大きな課題となったが,その後アクセス権の主張が後退し,問題意識も希薄になってきている。【広瀬 英彦】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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