イランの大学(読み)イランのだいがく

大学事典 「イランの大学」の解説

イランの大学
イランのだいがく

ガージャール朝(1796-1925年)下の19世紀,フランスやアメリカを主としたミッション・スクールや,トルコ・ロシア経由の西欧思想に触発された女性を含む新知識人たちが,イラン流の近代を目指す教育改革を模索し,新方式(ジャディード(イラン))教育を開始した。男子では国家エリート養成という観点からフランス語が,女子ではアメリカの影響を受け家政学や衛生学が重視された。

 一方,政府は留学生を欧州に派遣し,教育省を設立(1855年頃),エリート養成を目的とする中等・高等教育レベルの新方式学校を設立した。ロシアとオスマン帝国視察で西洋の近代科学に触れた宰相アミーレ・キャビール(在職1848-51)により,ダーロル・フォヌーン(イラン)がテヘランに創立された(1851年)。その後,政治学校(マドラセイェ・オルーメ・スィヤースィー,1899年創立),農業学校(マドラセイェ・ファラーハテ・モザッファル,1900年創立),法律学校(マドラセイェ・アーリーイェ・ホグーグ,1918年創立)など,各専門の高等教育機関が設立された。ダーロル・フォヌーンでは,外国人教授によって軍学,工学,医学,外国語(英・仏)などが教えられた。

 しかし,上記のエリート教育は女子を対象とせず,また一般の状況は識字教育を必要としていた。新方式教育を推進する宰相アミーノッドウレ(在職1896-98)時代,従来のマドラサ教育に対して,オスマン帝国での先例やロシア啓蒙思想の影響を受けた新知識人により,初等レベルでの識字教育普及に向けた努力がなされた。その嚆矢が,ミールザー・ハサン・ロシュディーイェ(1851-1944)によるロシュディーイェ校(イラン)である。ロシュディーイェは伝統的なイスラーム教育を受けた十二イマーム派法学者だったが,識字率の問題は教授法が原因と考え,ベイルートでフランス式教授法を学び,イスタンブルで視察した官立リュシュディイェ校を模し,1883年エレヴァン(ロシア領アルメニア)に学校を設立,音声学的観点による新しい識字教育を開始した。その後,同校はタブリーズやテヘランにも設立された。

 ロシュディーイェ校の教師として活躍したヤフヤー・ドウラターバーディー,Y.(1862-1940)は,自ら受けた伝統的教育を振り返り,教育における教師の役割や,子どもが家庭で日常的に使用している言語(母語)の重要性を主張した。また,新しい教育方法に対する反発を考慮して,イスラームの法や倫理に関する教科書を編纂し,のちに多くの初等学校で用いられるようになった。1899年に自らサーダート校(イラン)(テヘラン)を新設すると,貧しい家庭の子弟向けの無償教育を実施した。彼らの活動は女性も含む新方式教育の模範となり,欧州型カリキュラムなどで人気を集めたが,従来の教育の担い手であるウラマーなど,保守層には敵視された。イスラーム法に適う伝統的な慈善方式の運営によって反発を回避しようとしたが,イスラーム法厳守を強調する保守的な者たちの反発は大きく,とくに女子教育に対する攻撃は激しかった。

[大学の成立]

国会と憲法が制定されたイラン立憲革命(1905-11年)愛国主義と結びついた大衆運動が活発化し,パフラヴィー朝(1925-79年)では古代ペルシアを礼賛する上からのナショナリズムが断行された。レザー・シャー(イラン)(初代,在位1925-41)は西欧型の近代化と中央集権化を推進するため,教育・司法・立法の場からイスラーム的要素とウラマーを排除し,女子教育振興策も採用した。また,体制強化に貢献する専門エリートを養成するため,欧州への国費留学を実施,帰国後は官僚になる者が多かったが,有害視される西洋思想を吸収して政府を批判する者も出たため,イラン人アイデンティティの涵養も図られた。

 1920年代末,欧州留学などで欧米型の教育を受けた新知識人が,西洋型高等教育の導入を進言したことから,テヘラン大学(イラン)(ダーネシュガーヘ・テヘラーン(イラン))の創設が決定された。1934年に大学設立法案が国会に提出されると,政治・財政的な自立性を保持するとされつつも,教育省の管轄下,35年にペルシア語「ダーネシュガー(知識の場)」の名称で正式発足し,女子学生の受け入れも開始された(一般に1937年とされるが1936年とする研究もある)

 創立後のテヘラン大学は,国家による厳しい統制の現実,フランス式モデルの安易な借用など,学問水準は向上しなかったが,体制を支持するエリートの創出には一定の効果があり,新興中産階級子弟の動向に与えた影響は少なくなかった。ただ,一般民衆にとって大学は縁遠い存在で,彼らの間に根強い伝統的な信仰感情は,その後の体制にとって潜在的脅威となった。

 モハンマド・レザー・シャー(第2代,在位1941-79)時代には,大学数が増加した。タブリーズ大学(1947年),マシュハド大学(1949年),シーラーズ大学(1949年),エスファハーン大学(1950年)が主要な都市に開学された(すべて単科大学,のち総合大学化)。その後も,ジョンディーシャープール大学(アフヴァーズ,1955年),メッリー大学(私立,テヘラン,1960年),アーリヤーメフル工科大学(テヘラン,1966年)が新設された。

 モハンマド・レザー・シャーは,より急速な近代化・世俗化を目指す「白色革命(イラン)(正式名:国王と人民の改革)」に着手(1963年),教育分野では識字率向上と教育制度改革,公立学校無償化が実施された。初等・中等教育へのてこ入れに対して,高等教育の整備が著しく遅れていたため,1967年科学・高等教育省が設置された。1970年代半ばまでに,タルビヤテ・モアッレム大学(教員養成単科,のち総合化,テヘラン,1974年),セパーヘ・ダーネシュ大学(単科,のち総合化,ヴァラーミーン,1974年),ファラフ・パフラヴィー大学(女子・単科,のち総合化,テヘラン,1975年),バルーチェスターン大学(ザーヘダーン,1975年),ブー・アリー・スィーナー大学(ハマダーン,1976年),ファーラービー大学(テヘラン,1976年),ギーラーン大学(ラシュト,1976年),ケルマーン大学(1976年),ラーズィー大学(ケルマーンシャー,1976年),レザー・シャー・キャビール大学(バーボルサル,1976年)などが新設された。

 この時期,4年制及び2年制の単科大学も拡充されたが,多くは経理,翻訳,教育,社会福祉の2年課程を実施する私立大学であった。エルム・ヴァ・サンアト大学(テヘラン)やサンアティーイェ・ポリーテクニーク大学(テヘラン)など,総合大学に匹敵する名声を誇るものもあった。レザー・シャーの時代,これらの卒業生の大部分は海外に派遣されるかテヘラン大学に進学するなどして,学歴に見合う職を得ることができた。ところがその後,高等教育の整備が追いつかず,教育の質も改善されなかったので,社会的上昇の手段として教育に期待を寄せる人々を失望させた。十分な役割を果たせないまま,科学・高等教育省は1977年に解体された。1978年には,中等教育の卒業生のうち高等教育に進学できた者はわずか12%で,大学在籍学生数は3万人に届かなかったと言われている。教育は社会的地位を決定する重要な要素と受け止められていたが,同時に非識字率は依然として高い割合を占めており,教育の機会等にはほど遠い状況だった。高等教育を受けてもその後の道が開かれない若者たちの間には不満が募り,1979年イラン革命の一つの布石となった。
著者: 阿久津正幸

[大学改革(イラン)]

イラン革命(1979年)後,イスラーム法(シーア派十二イマーム派ジャアファル学派)とイスラーム法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を統治の基本とするイラン・イスラーム共和国が成立すると,政府はパフラヴィー朝によるイスラーム軽視の姿勢を批判し,文化や教育の「イスラーム化」に着手,女性のヒジャーブ(ヴェール)着用義務ならびに大学を除く男女別学が導入された。反イスラーム的とされる教員の粛清や再教育が実施され,学校に配置された指導員が集団礼拝など宗教活動を管理するようになった。

 イスラーム的公正の名の下に,教育格差の是正も目標とされた。モハンマド・レザー・シャー時代の1960年代,都市部を中心に大学進学競争が激化したため,70年代には高等教育機関が増設された。私立学校は,大学進学に有利な教育を提供することで富裕層を惹きつけていた。こうした状況が教育格差を助長したとして,1980年,革命評議会(イラン)は私立学校の解散・公立化を決定し,学区制に基づく生徒の採用,被抑圧者への定員割り当て,学費の徴収禁止などを命じた。

 イラン革命直後,大学は政治闘争の場と化し,1980年に閉鎖されてから再開までに3年近い歳月を要した。この間,教授陣の再教育,「イスラーム的カリキュラム」の構築,学内の政治活動の規制が実施された。大学再開後,学力試験に加えて,政治的信条や活動歴,宗教義務の実践状況も学生の審査項目に加えられた。都市中間層や富裕層による大学教育の独占を打開する策として,辺境出身者,革命や戦争功労者の家族に特別枠を設定し,大学入学を有利にさせる改革も行われた。実際は,革命の主要な支持基盤である地方出身者,貧困層や低学歴層に有利な機会を与え,体制に忠実なエリートを養成する措置とみなされている。パフラヴィー朝期には,大卒・高卒者は事務職に偏重し,政府諸機関の雇用が肥大化したことから,労働実習プログラム(イラン)を導入し,男子学生には工場や病院などでの労働体験,女子学生には学内での家事・育児・保健衛生などの学習も義務付けられた。
著者: 山﨑和美

参考文献: David Menashri, “Education xvii. Higher Education”, Encyclopædia Iranica Web Version(Last Updated: December 9,2011): http://www. iranicaonline. org/articles/education-xvii-higher-education(2013年10月最終閲覧).

参考文献: Ringer, Monica Mary, Education, Religion, and the Discourse of Cultural Reform in Qajar Iran, Costa Mesa, California: Mazda Publishers, 2001.

参考文献: 桜井啓子『革命イランの教科書メディア―イスラームとナショナリズムの相剋』岩波書店,1999.

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android