改訂新版 世界大百科事典 「イラン学」の意味・わかりやすい解説
イラン学 (イランがく)
イラン学は,楔形文字の古代ペルシア語碑文,パフラビー文字の碑文とアベスター経典,ソグド語・サカ語・ホタン語の出土文書などの厳密な言語学的研究から始まった。ガイガーW.Geiger,クーンE.Kuhn共編の《イラン言語学概論》(1895-1904)がその成果である。イラン言語学はパミール方言などイラン諸方言の調査,ペルシア語の文法書・辞典の整備を進展させるとともに,ゾロアスター教・マニ教の研究にも文献学的基礎を与え,ボイスM.Boyceの《ゾロアスター教史》(1975)を生み出すにいたっている。
イランの考古学的調査に先鞭をつけたのは,フランス隊のスーサ発掘であり,シカゴ大学のペルセポリス調査は大きな成果をあげた。出土品の多様性はイラン美術に対する関心を高め,ポープA.U.Pope編の《イラン美術大観》(1938-39)という豪華本が刊行された。
アラビア文字を用いたペルシア語は,イラン本土ばかりでなく,インド・アフガニスタン・中央アジアの諸王朝の公用語であり,文献はほとんどペルシア語で書かれた。ロシアのアジア進出とともに多量のペルシア語写本が西方に流れた。19世紀半ばころから,これらのペルシア語写本の整理が始まった。C.リューの《大英博物館ペルシア語写本目録》(1879-95)は最も優れたカタログであり,これはペルシア語原典によるイラン文化研究の第一歩といってよい。西洋古典学の文献学的方法に準拠する,ペルシア語原典のテキスト校訂と訳注の作成という業績が蓄積された。ジュワイニーの《世界征服者の歴史》をはじめとする重要なペルシア語テキストが《ギブ記念叢書》に納められた。フィルドゥーシーの《シャー・ナーメ》や,ウマル・ハイヤーム,サーディー,ハーフィズの詩も各国語に訳され,ペルシア文学作品が欧米諸国で鑑賞されるようになった。主要な大学にペルシア語講座が設置され,イラン学専攻の研究者が養成された。E.G.ブラウンの《ペルシア文学史》(1928)は,イランの文学遺産を通観したもので,ペルシア文学ばかりでなく,広くイラン文化の研究を方向づける古典となっている。イラン史の分野では,《ケンブリッジ・イラン史》8巻が企画され,3巻刊行(1968-75)されたのみで中断している。イラン学の中心も徐々にアメリカ,ソ連(現,ロシア)に移りつつあるようである。
イランにおけるイラン学研究は,1950年代以後急速に進み,テヘラン大学を中心に優れた学者が活動し,文学・史学・宗教などの文献学的研究,文書の整理,碑文の解読から美術・考古学・人類学の諸分野の開拓が試みられている。イラン人はこれらの研究を総称してイラン学と呼んでいる。出版物も膨大な量となった。79年のイラン革命で一時休止の観があるが,アフシャールIraj Afshār編の雑誌《アーヤンデ》は健在で,現在のイラン学術情報を伝えてくれる。
→ペルシア語
執筆者:本田 実信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報