ウォード(読み)うぉーど(英語表記)Frederick Townsend Ward

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウォード」の意味・わかりやすい解説

ウォード(Lester Frank Ward)
うぉーど
Lester Frank Ward
(1841―1913)

アメリカで最初に体系的な社会学を講じた社会学者。正規の教育を受けず苦学のすえ官吏となり、65歳で初めてブラウン大学教授となる。アメリカ社会学会の初代会長。初めは地質学、古生物学を専攻したが、のちに社会学に転じた。コントスペンサーに代表されるヨーロッパの進化論的な社会発展説を受け継ぎ、社会の本質に関する理論的究明と現実社会の改革に関する実践的な研究とをあわせた、包括的な総合社会学の体系を打ち立てた。理論的究明の部分は、社会の発生形態の考察を通して社会の本質的性格を明らかにしようとするもので純粋社会学とよばれ、実践的な研究は応用社会学と名づけられて、教育を充実して水準の高い知性を人々に平等に与えることにより、人為的不平等である階級対立を克服することが、社会の改善につながると主張した。社会の進歩における人間の知性と心理的要因の意義を重要視する彼の理論は、後のアメリカの心理学的社会学の基礎となり、また高等教育の普及を促した。主著に『動態社会学』(1883)がある。

[杉 政孝]


ウォード(Frederick Townsend Ward)
うぉーど
Frederick Townsend Ward
(1831―1862)

アメリカの冒険家。漢名華爾(かじ)。マサチューセッツセーレムの人。1846年船乗りとして中国に渡り、49年にはバーモント州の陸軍学校を中退。以後58年まで冒険を求めて世界を放浪、59年秋再度中国に渡った。60年5月上海(シャンハイ)の大商人楊坊(ようぼう)らと謀って外人雇兵隊を組織し、太平天国の一城市をとるごとに最高総額13万3000ドルの償金を受け取る契約を結んだ。これが洋槍(ようそう)隊(後の常勝軍)で、60年7月松江を落としてここを本拠地とし、上海周辺で太平軍と死闘を続けた。62年2月楊坊の娘唱美と結婚。同年9月慈谿(じけい)(浙江(せっこう)省)の戦役で陣頭指揮中に戦死した。

[三石善吉]

『J・スペンス著、三石善吉訳『中国を変えた西洋人顧問』(1975・講談社)』


ウオード(Frederick Townsend Ward)
うおーど

ウォード


ウオード(Lester Frank Ward)
うおーど

ウォード

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウォード」の意味・わかりやすい解説

ウォード
Ward, Lester Frank

[生]1841.6.18. イリノイジョリエット
[没]1913.4.18. ロードアイランド
アメリカ社会学の創始者。貧しい少年期をおくり南北戦争では北軍兵士として戦った。 1869年,コロンビア・カレッジ (のちのジョージ・ワシントン大学) を卒業,71年に同校の文学修士 (マスター・オブ・アーツ) となる。その後,政府に勤め,地質学,植物学などの研究に従事。 1906年,ブラウン大学社会学教授となり,死ぬまでこの職にあった。アメリカ社会学会初代会長 (1906~07) 。彼は A.コントの強い影響を受けて,宇宙哲学体系を企図し,さらに進化論的立場から,宇宙が創造的進化の過程にあると考えた。人間が宇宙進化の最高段階であり,人間によって社会が形成され,この過程で生じた「人間の業績」が文明形成であるとして,ここに社会学の対象をとらえた。主著『社会学概論』 Outlines of Sociology (1898) ,『純粋社会学』 Pure Sociology (1903) ,『応用社会学』 Applied Sociology (06) 。

ウォード
Ward, Artemus

[生]1834.4.26. メーンウォーターフォード
[没]1867.3.6. サウサンプトン
アメリカのユーモア作家。本名 Charles Farrar Browne。 1857年クリーブランドの『プレーン・ディーラー』紙に,旅の興行師アーティマス・ウォードなる人物がさまざまな主題について語る軽妙な文章『アーティマス・ウォード言説集』 Artemus Ward's Sayingsを連載して有名になった。その後各地へ講演旅行に出かけたが,イギリスで客死。主著『アーティマス・ウォードの書』 Artemus Ward: His Book (1862) ,『アーティマス・ウォード旅行記』 Artemus Ward: His Travels (65) 。 M.トウェーンに大きな影響を与えた。

ウォード
Ward, Frederick Townsend

[生]1831.11.29. マサチューセッツ,セーレム
[没]同治1(1862).11.21. 浙江,寧波
中国の太平天国鎮圧に従事した外人傭兵隊「常勝軍」の創設者。中国名は華爾。上海周辺で汽船の運転をしていたが,咸豊 10 (1860) 年,上海の買弁商人楊坊 (ようぼう) の要請で外人水夫を集め傭兵隊を組織,松江を奪回,同治1 (62) 年には英仏の正規兵とともに,上海に迫った太平軍を撃退した。その功によって清朝から副将の資格を授けられ,部隊は常勝軍の名を得た。のち,寧波攻撃中戦死。

ウォード
Ward, James

[生]1843.1.27. ヨークシャー,ハル
[没]1925.3.4. ケンブリッジシャー,ケンブリッジ
イギリスの哲学者,心理学者。ケンブリッジ大学教授 (1897~1925) 。 1869年ドイツに留学し,R.H.ロッツェの影響を受けた。彼の心理学は G.F.スタウト,G.E.ムーア,L.ウィトゲンシュタインに影響を与えた。主著に『心理学原理』 Psychological principles (18) がある。

ウォード
Ward, Artems

[生]1727.11.26. マサチューセッツ,シュルーズベリー
[没]1800.10.28.
アメリカ独立革命期の軍人。独立戦争の緒戦であるボストン包囲戦の指揮をとり,1776年3月イギリス軍を撤退させた。 G.ワシントンの総司令官就任に伴い辞任を申出たが,77年3月までボストン地区司令官をつとめる。大陸会議代表,連邦下院議員 (1791~95) を歴任。

ウォード
Ward, James

[生]1769.10.23. ロンドン
[没]1859.11.23. チェシャント
イギリスの風景画家,動物画家,版画家。主として動物を題材とした。 1811年以来ロイヤル・アカデミー会員。主要作品『闘牛』 (1804頃,ビクトリア・アンド・アルバート美術館) ,巨大な『ゴーデールの断崖』 (15,テート・ギャラリー) 。

ウォード
Ward, Fannie

[生]1872.2.22. セントルイス
[没]1952.1.27. ニューヨーク
アメリカの女優。ニューヨークとロンドンで,多くの喜劇やミュージカルに出演,「永遠の若さと美貌」で人気を博した。

ウォード
Ward, Mary Augusta

[生]1851
[没]1920
イギリスの女流作家,社会事業家。 M.アーノルドの姪。アミエルの『日記』の翻訳者として知られる。

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