翻訳|Darwinism
この語は生物学におけるC・R・ダーウィンの進化理論をさすほか、より広く社会思想における進化思想一般を意味する側面をもっている。ダーウィンは1859年刊の『種の起原(しゅのきげん)』によって、生物は古来不変なものではなく、長い年月の間に進化してきたことを多くの資料に基づいて科学的に立証し、しかもその進化は、自然選択による適者生存の結果であり、人間も生物として例外ではなく、現存のサルと共通の祖先から分岐して生まれたものであるという学説を提出した。
ダーウィンの進化論は自然科学の合理性を主張することによって世界観を変革し思想界に大きな影響を与えた。ダーウィンの時代、イギリスは産業革命から100年を経過し、産業資本主義の発展期にあり、海外市場の獲得や植民地争奪という自由競争が強化されつつあった。またダーウィン自身は富裕な階級の出身であって、当時の産業資本家たちのもっていた自由で文化的な環境で育てられた。このような社会的条件が彼の進化論を生んだ背景になっており、進化論にみられる変化、競争、発展という理念も当時の資本主義先進国イギリスの社会を反映している。進化論発表当初は、いちおうの衝撃を受けた思想界が結局において進化論を受容したのは、その素地がすでに当時の社会にあったからであろう。
とはいえ、進化論ほど人々の宗教心を揺るがせたものはなかったといわれる。生物が進化すること、とくに人間がサルから進化したという見解は、キリスト教の教義を否定するものであり、『種の起原』出版直後にオックスフォードのウィルバーフォース主教が激しい攻撃を行ったことは有名である。また近年までアメリカの公立学校で進化論を教えることを禁止していた州があったこと、また進化論と『旧約聖書』の説いた創造説の両者を教えるべきだという法廷論争があったことを考えると、進化論と宗教との論争は1世紀以上も続いたことになる。
進化論は、上昇期にあった資本主義からは生物と同様に社会も発展するという進歩の思想として受け止められた。一方、この時代に資本主義から社会主義への移行の理論を構築していたK・マルクスは『資本論』にダーウィンを引用した。F・エンゲルスは『自然弁証法』でダーウィニズムに欠陥が含まれていることを指摘しつつも弁証法的な自然観を支える学説の一つとしてエネルギー保存則、細胞説とともに高く評価している。
ダーウィン自身は進化論を人間社会にまで演繹(えんえき)することは考えていなかったが、ダーウィン以後に自然選択や生存競争をそのまま社会に適用しようとする思想が現れ社会ダーウィン主義とよばれた。人間社会の個人間の優勝劣敗や弱肉強食を社会における普遍的な原理として主張する反動的な思想がそれで、さらに生存競争を個人間のみならず階級や国家、民族や人種の間にも拡張して適者生存よりもむしろ劣者淘汰(とうた)を主張し、貧困や戦争の必然性を主張する思想も現れた。
ダーウィンの従弟(いとこ)のゴルトンは優生学を創始した。そこでは、文明社会では人道主義によって劣悪な素質をもつ者も生き残っているが、これは自然選択の原理に反するとし、社会の進歩のためには、遺伝的に決定されている優秀な素質をもつ者のみを残して繁殖させるべきであり、そのためには断種などによる人間の遺伝的改善をすべきであると主張する。かつてアメリカでおこった黒人排斥運動による移民制限法や断種法、さらに第二次世界大戦中のナチス・ドイツのユダヤ人排斥や大量の虐殺のような人種差別の理論的背景は優生学である。この優生学が1972年から社会生物学として復活し、現在そのあり方をめぐってさまざまな論争が続いているが、たとえばアメリカでノーベル賞受賞者が関係する精子銀行などの問題はこの思想の現れの一つである。
日本への進化論の導入は明治初年にアメリカの生物学者E・S・モースによって行われ、その後、丘浅次郎(おかあさじろう)が『進化論講話』(1904)を書いてダーウィニズムを普及させた。この時代は日本は明治維新後の西欧思想一般の導入期であったため、文明開化の波にのって思想的にもまったく抵抗なしに受容された。日本には欧米のようにキリスト教との対立もなく、人間とサルとの連続性に対する強い反対もなかった。自然や社会の進化発展の思想は草創期にあった日本資本主義にとってむしろ歓迎されたが、同時に反動的な思想も現れている。東京大学総長の加藤弘之(ひろゆき)は『人権新説』(1882)を書き、人間にも生存競争と自然選択による優勝劣敗は必然であると主張し、自由民権論者から反論された。丘浅次郎も明治から大正にかけて新聞や雑誌の評論で人間社会における生存競争について論じ、社会ダーウィン主義的な思想を述べている。
[宇佐美正一郎]
この語の意味は厳密にきまってはいない。まず第1の定義はC.ダーウィンの学説ということだが,それにもかれの学説の中心であった自然淘汰説をさす場合と用不用説などを含めた学説全体をさす場合とがある。ダーウィンと同時に自然淘汰説を公にしたA.R.ウォーレスはのちに自著の表題を《ダーウィニズム》(1889)としたが,これは前者の場合にあたる。ダーウィニズムの語で進化論一般をさした場合もあり,とくに進化論が大きな思想的影響を与えつつあった時代には進軍の旗印の役もした。例えば19世紀後半以降アメリカでのプラグマティズムの哲学の成立と発展の時期においてである。進化の様相への全般的な見かたに関してこの語が用いられることもある。ダーウィンは進化を緩やかで連続的なものと見ており,そうした漸進的進化観をさすのである。
ところで1870年代よりA.ワイスマンは遺伝についてのダーウィンの見解を修正して獲得形質の遺伝を絶対的に否定し,その観念をもとに自然淘汰説を一本化したネオ・ダーウィニズムneo-Darwinism(新ダーウィン説)を唱えた。かれにより〈自然淘汰の万能〉の語も用いられた。1930年ごろより集団遺伝学の発展にもとづき自然淘汰の組織的研究およびそれによる進化要因の研究が基礎づけられ,新たな意味でネオ・ダーウィニズムの語が適用されるようになった。現在ではおもにこの意味で用いられる。進化研究のこの歩みは同時に生物学の諸分野の遺伝学を中心においた総合でもあるので,その道を進む研究者たちは総合学派と呼ばれ,その基本的な学問傾向はネオ・メンデリズムneo-Mendelismと称されることもあるが,ネオ・ダーウィニズムと結局は同義になる。なお自然淘汰ないし生存競争の観念を社会の問題に適用したものは社会ダーウィニズムと呼ばれる。
→社会進化論
執筆者:八杉 竜一
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(垂水雄二 科学ジャーナリスト / 2007年)
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