デジタル大辞泉 「エドワード」の意味・読み・例文・類語
エドワード(Edward)







翻訳|Edward
サックス・コーバーグ・ゴータ(ウィンザー)朝のイギリス王(在位1901~1910)。ビクトリア女王の長男として生まれる。幼時から厳格な教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジ大学で学ぶ。女王は、皇太子に責任ある役割を果たさせようとせず、彼は型どおりの公務や慈善事業などを行うほかは、社交界での活動にエネルギーを費やした。しかし、外交問題への関心は深く、とりわけ英仏関係の改善に心を配った。
1901年、母の死により59歳で王位についたのちも、外交への興味はもち続け、ヨーロッパの各地を歴訪して、「ヨーロッパの伯父上」とよばれた。アレクサンドラ王妃Alexandra(1844―1925)との間に3男3女をもうけ、次男がジョージ5世として王位を継承した。
[木畑洋一 2022年6月22日]
プランタジネット朝のイギリス王(在位1327~77)。エドワード2世の長男。父王の廃位後即位。初め母后イサベラとその寵臣(ちょうしん)モーティマーRoger (Ⅲ)de Mortimer(1286/87―1330)が実権を握ったが、1330年ごろから親政。32年にスコットランド軍を破ってイギリスの主権を主張した。その後、ガスコーニュ領有やフランドル支配を行い、カペー朝フィリップ4世の孫としてフランス王位継承権を主張してフランスと争い、百年戦争を始めた。戦闘は39年から始まったが、40年スロイスの戦い、46年クレシーの戦い、56年ポアチエの戦いに勝利を得た。48年ごろにはガーター勲位制を設けたりしたが、戦果はあがらず、フランス王位継承権を放棄してアキテーヌ領有を確保したのみであった。
戦争によって国家主義の気運が高まり、53年の教皇尊信罪法のような反教会主義的風潮を生み、トン税、ポンド税などの課税が発達して、議会庶民院の課税同意権も発展したが、48~49年の黒死病(ペスト)は、封建領主制の危機を助長し、巡回裁判制や治安判事制による治安取締りも厳しくされた。その後、王は政治に無関心となり、76年皇太子の死によって戦況も悪化し、王の四男ジョン・オブ・ゴーント公の専制を許した。
[富沢霊岸]
ノルマン朝成立以前の、最後のアングロ・サクソン系のイングランド王(在位1042~1066)。エセルレッド2世Ethelred Ⅱ(968?―1016、在位978~1016)とエマEmma of Normandy(985?―1052)との子。1013年のデンマーク王スベンの攻撃を避けてノルマンディーに逃れ、そこで育った。デーン朝ハーザクヌードHardeknud(ハーデクヌーズ)王(1019?―1042、デンマーク王(在位1028~1042)、イングランド王(在位1040~1042))の死後即位。修道士のような風貌(ふうぼう)のため懺悔(ざんげ)王とよばれた。ウェセックス伯ゴドウィンGodwine(1053没)の専横に不満で、ノルマン人貴族を寵愛(ちょうあい)し、ノルマンディー公ウィリアムに王位後継を約束した。王のノルマン人偏重政策は、ゴドウィン伯を反抗に走らせた。その子ハロルド伯も権勢を振るい、王は晩年は信仰生活を送った。王はイングランド南東部の5港市に特権を与えて海上防衛にあたらせ、ウェストミンスター修道院を壮大にした。彼の時代は、最後のアングロ・サクソン王の時代として、のちに理想化された。
[富沢霊岸 2022年10月20日]
プランタジネット朝のイギリス王(在位1272~1307)。ヘンリー3世の長男。皇太子時代ガスコーニュとアイルランドを経営。シモン・ド・モンフォールの乱に初め反対していたが、のちそれを支持した。しかし、シモンらの寡頭制を批判するに至り、1265年、父ヘンリー3世を助けてシモンをイーブシャムに破り、父王にかわって1267年マールバラ法を出して内乱を収拾した。1270年十字軍遠征に出て、父王の死(1272)後1274年に帰国。1274~1275年の調査をもとに一連の制定法を出して「イギリスのユスティニアヌス」の異名をとり、封建王政を発展させた。議会制を尊重し1295年には模範議会を招集したが、晩年は独裁化した。外交面では、1284年ウェールズ法を出し、1301年皇太子をプリンス・オブ・ウェールズとする風を始め、大陸でもシチリア問題の調停に活躍したが、スコットランドで擁立したベイリアルJohn Balliol王(1250―1314、在位1292~1296)に背かれ、ロバート・ブルースRobert Bruce王(のちのロバート1世。1274―1329、在位1306~1329)の抵抗に苦しんだ。
[富沢霊岸 2022年12月12日]
チューダー朝のイギリス王(在位1547~1553)。ヘンリー8世の子。生母はジェーン・シーモアJane Seymour(1508/1509―1537)。幼少であったため、伯父のサマーセット公Edward Seymour, 1st Duke of Somerset(1500/1506―1552)が摂政(せっしょう)となった。のちにノーサンバーランド公John Dudley, 1st Duke of Northumberland(1504?―1553)がかわって国政を動かす。知的には早熟、繊細で好学の少年であり、また真剣に改革派の教義を信奉した。したがってその治世中にイギリスの宗教改革は前進し、クランマーによって『祈祷書(きとうしょ)』が編集されると同時に、「礼拝統一法」が制定された(1549年と1552年の2回)。だが、政治的、社会的には安定を欠き、農民一揆(いっき)の頻発がみられた。16歳で結核のため早世。死の床でノーサンバーランド公に迫られて、公の息子の嫁ジェーン・グレイJane Grey(1537―1554)を後継者に指名した。
[植村雅彦 2022年12月12日]
イギリス王エドワード3世の長子。百年戦争におけるもっとも有名な武将の一人。「黒太子(こくたいし)」の名は、彼が愛用した黒い鎧(よろい)に由来する。初陣のクレシーの戦いで武勲をたてたが、自ら部隊を率い勇名を馳(は)せたのはポアチエの戦い(1356)で、フランス王ジャン2世を捕虜とした。1360年の和約で割譲されたアキテーヌ公領の統治者として赴任したものの、カスティーリャとの戦いで病いを得、また財政の悪化で諸侯や都市、農民が離反し、給料未払いの傭兵(ようへい)が蜂起(ほうき)するなど、失意のうちに71年帰国した。日ごろの豪奢(ごうしゃ)な暮らしぶりと宝石についての鑑識眼(太子のルビーは現王室の王冠に飾られている)でも知られるが、父王より早く死没し、太子の次子がリチャード2世として王位を継いだ。
[松垣 裕]
プランタジネット朝のイギリス王(在位1307~27)。エドワード1世の四男。王としての資質を欠き、寵臣(ちょうしん)に頼って専制し、貴族らの反抗にあう。スコットランドにも敗れたが、1322年貴族軍を破って専制を復活した。フランス王シャルル4世の妹である王妃イサベラIsabella(1292―1358)にも背かれ、ガスコーニュ領問題折衝のために王妃の渡仏を許したが、26年、フランスに亡命中の与党を集めた王妃と皇太子らの攻撃にあう。王はイングランド西部に逃れたが逮捕され、貴族、庶民諸階層の支持を失い王位を追われた。
[富沢霊岸]
ヨーク朝初代のイギリス王(在位1461~83)。ランカスター朝ヘンリー6世に対し、父ヨーク公が王位を要求して起こした反乱(ばら戦争の発端)により戴冠(たいかん)したが、従兄(いとこ)ウォーリック伯と争い、一時は国外に逃れた。しかし1471年帰国し、政敵を倒して復位し、王座を確保した。晩年はフランスに大軍を進めて有利な条約を結び、諸国との通商を盛んに行ったほか、財政改革にも熱心で、王国を繁栄に導いた。
[松垣 裕]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ヨーク公リチャードの三男。1460年父が戦死したのち兄を助け,61年兄エドワード4世の即位後グロスター公に叙される。70年ヨーク朝の最大の支柱で国王擁立者であったウォリック伯が離反し,ランカスター朝のヘンリー6世が王位に復した。…
※「エドワード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...