エドワード(読み)えどわーど(英語表記)Edward, the Black Prince

デジタル大辞泉 「エドワード」の意味・読み・例文・類語

エドワード(Edward)

[1002ころ~1066]懺悔ざんげ王(~the Confessor)。イングランド王。在位1042~1066。エセルレッド2世の子。敬神の念があつく、ウエストミンスター寺院を再建。法令集「エドワード懺悔王の法」を作った。
(1世)[1239~1307]イングランド王。在位1272~1307。ヘンリー3世の長子。シモン=ド=モンフォールを敗死させて即位。ウェールズを征服、併合。模範議会を開催し、議会制度の発展にも尽くした。
(3世)[1312~1377]イングランド王。在位1327~1377。エドワード2世の長子。母がカペー朝の出身であったことからフランス王位継承権を主張して、百年戦争を開始。この治世に、上院下院の別がほぼでき上がった。ガーター勲章を制定。
[1330~1376]黒太子こくたいし(~the Black Prince)。エドワード3世の長子。フランスとの百年戦争に活躍。南フランス、アキテーヌとガスコーニュを統治。黒い鎧を着用して活躍し、その行動は中世騎士道の華とされる。
(6世)[1537~1553]イングランド王。在位1547~1553。ヘンリー8世の子。16歳で死去。熱心な新教徒で、「四十二箇条宗義」「一般祈祷きとう書」を発布してイギリス国教会の確立を指導。
(7世)[1841~1910]英国王。在位1901~1910。ビクトリア女王の長子。60歳で即位。南ア戦争を終結させ、三国協商の成立に尽くして英国の国際的地位の向上に努めた。
(8世)[1894~1972]英国王。在位1936年1~12月。ジョージ5世の長子。米国生まれのシンプソン夫人との結婚問題で退位。以後、ウィンザー公と称した。

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精選版 日本国語大辞典 「エドワード」の意味・読み・例文・類語

エドワード

  1. ( Edward )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) イングランド王(在位一二七二‐一三〇七)。ヘンリー三世の子。従来の慣習法を整えた。王権を強化し、ウェールズを併合し、スコットランド征服をくわだて、遠征中に死んだ。(一二三九‐一三〇七
  3. [ 二 ] ( 三世 ) イングランド王(在位一三二七‐七七)。一三三七年、フランス王位継承権を主張し対仏百年戦争を開く。国内での毛織物工業の育成をはかった。(一三一二‐七七
  4. [ 三 ] ( 七世 ) イギリス国王(在位一九〇一‐一〇)。ビクトリア女王の長子。六〇歳で即位した。英仏協商・英露協商の成立に尽力。ドイツの帝国主義政策に対抗して、イギリスの国際的地位の強化に努めた。(一八四一‐一九一〇
  5. [ 四 ] ( 八世 ) イギリス国王(在位一九三六)。エリザベス二世の伯父。即位後まもなく、アメリカ人シンプソン夫人との結婚問題で退位。ウィンザー公の称号を得て、翌年フランスで結婚。(一八九四‐一九七二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エドワード」の意味・わかりやすい解説

エドワード(7世)
えどわーど
Edward Ⅶ
(1841―1910)

サックス・コーバーグ・ゴータ(ウィンザー)朝のイギリス王(在位1901~1910)。ビクトリア女王の長男として生まれる。幼時から厳格な教育を受け、オックスフォード、ケンブリッジ大学で学ぶ。女王は、皇太子に責任ある役割を果たさせようとせず、彼は型どおりの公務や慈善事業などを行うほかは、社交界での活動にエネルギーを費やした。しかし、外交問題への関心は深く、とりわけ英仏関係の改善に心を配った。

 1901年、母の死により59歳で王位についたのちも、外交への興味はもち続け、ヨーロッパの各地を歴訪して、「ヨーロッパの伯父上」とよばれた。アレクサンドラ王妃Alexandra(1844―1925)との間に3男3女をもうけ、次男がジョージ5世として王位を継承した。

[木畑洋一 2022年6月22日]


エドワード(3世)
えどわーど
Edward Ⅲ
(1312―1377)

プランタジネット朝のイギリス王(在位1327~77)。エドワード2世の長男。父王の廃位後即位。初め母后イサベラとその寵臣(ちょうしん)モーティマーRoger (Ⅲ)de Mortimer(1286/87―1330)が実権を握ったが、1330年ごろから親政。32年にスコットランド軍を破ってイギリスの主権を主張した。その後、ガスコーニュ領有やフランドル支配を行い、カペー朝フィリップ4世の孫としてフランス王位継承権を主張してフランスと争い、百年戦争を始めた。戦闘は39年から始まったが、40年スロイスの戦い、46年クレシーの戦い、56年ポアチエの戦いに勝利を得た。48年ごろにはガーター勲位制を設けたりしたが、戦果はあがらず、フランス王位継承権を放棄してアキテーヌ領有を確保したのみであった。

 戦争によって国家主義の気運が高まり、53年の教皇尊信罪法のような反教会主義的風潮を生み、トン税、ポンド税などの課税が発達して、議会庶民院の課税同意権も発展したが、48~49年の黒死病(ペスト)は、封建領主制の危機を助長し、巡回裁判制や治安判事制による治安取締りも厳しくされた。その後、王は政治に無関心となり、76年皇太子の死によって戦況も悪化し、王の四男ジョン・オブ・ゴーント公の専制を許した。

[富沢霊岸]


エドワード(懺悔王)
えどわーど
Edward, the Confessor
(1002/1005―1066)

ノルマン朝成立以前の、最後のアングロ・サクソン系のイングランド王(在位1042~1066)。エセルレッド2世Ethelred Ⅱ(968?―1016、在位978~1016)とエマEmma of Normandy(985?―1052)との子。1013年のデンマーク王スベンの攻撃を避けてノルマンディーに逃れ、そこで育った。デーン朝ハーザクヌードHardeknud(ハーデクヌーズ)王(1019?―1042、デンマーク王(在位1028~1042)、イングランド王(在位1040~1042))の死後即位。修道士のような風貌(ふうぼう)のため懺悔(ざんげ)王とよばれた。ウェセックス伯ゴドウィンGodwine(1053没)の専横に不満で、ノルマン人貴族を寵愛(ちょうあい)し、ノルマンディー公ウィリアムに王位後継を約束した。王のノルマン人偏重政策は、ゴドウィン伯を反抗に走らせた。その子ハロルド伯も権勢を振るい、王は晩年は信仰生活を送った。王はイングランド南東部の5港市に特権を与えて海上防衛にあたらせ、ウェストミンスター修道院を壮大にした。彼の時代は、最後のアングロ・サクソン王の時代として、のちに理想化された。

[富沢霊岸 2022年10月20日]


エドワード(1世)
えどわーど
Edward Ⅰ
(1239―1307)

プランタジネット朝のイギリス王(在位1272~1307)。ヘンリー3世の長男。皇太子時代ガスコーニュとアイルランドを経営。シモン・ド・モンフォールの乱に初め反対していたが、のちそれを支持した。しかし、シモンらの寡頭制を批判するに至り、1265年、父ヘンリー3世を助けてシモンをイーブシャムに破り、父王にかわって1267年マールバラ法を出して内乱を収拾した。1270年十字軍遠征に出て、父王の死(1272)後1274年に帰国。1274~1275年の調査をもとに一連の制定法を出して「イギリスのユスティニアヌス」の異名をとり、封建王政を発展させた。議会制を尊重し1295年には模範議会を招集したが、晩年は独裁化した。外交面では、1284年ウェールズ法を出し、1301年皇太子をプリンス・オブ・ウェールズとする風を始め、大陸でもシチリア問題の調停に活躍したが、スコットランドで擁立したベイリアルJohn Balliol王(1250―1314、在位1292~1296)に背かれ、ロバート・ブルースRobert Bruce王(のちのロバート1世。1274―1329、在位1306~1329)の抵抗に苦しんだ。

[富沢霊岸 2022年12月12日]



エドワード(6世)
えどわーど
Edward Ⅵ
(1537―1553)

チューダー朝のイギリス王(在位1547~1553)。ヘンリー8世の子。生母はジェーン・シーモアJane Seymour(1508/1509―1537)。幼少であったため、伯父のサマーセット公Edward Seymour, 1st Duke of Somerset(1500/1506―1552)が摂政(せっしょう)となった。のちにノーサンバーランド公John Dudley, 1st Duke of Northumberland(1504?―1553)がかわって国政を動かす。知的には早熟、繊細で好学の少年であり、また真剣に改革派の教義を信奉した。したがってその治世中にイギリスの宗教改革は前進し、クランマーによって『祈祷書(きとうしょ)』が編集されると同時に、「礼拝統一法」が制定された(1549年と1552年の2回)。だが、政治的、社会的には安定を欠き、農民一揆(いっき)の頻発がみられた。16歳で結核のため早世。死の床でノーサンバーランド公に迫られて、公の息子の嫁ジェーン・グレイJane Grey(1537―1554)を後継者に指名した。

[植村雅彦 2022年12月12日]


エドワード(黒太子)
えどわーど
Edward, the Black Prince
(1330―1376)

イギリス王エドワード3世の長子。百年戦争におけるもっとも有名な武将の一人。「黒太子(こくたいし)」の名は、彼が愛用した黒い鎧(よろい)に由来する。初陣のクレシーの戦いで武勲をたてたが、自ら部隊を率い勇名を馳(は)せたのはポアチエの戦い(1356)で、フランス王ジャン2世を捕虜とした。1360年の和約で割譲されたアキテーヌ公領の統治者として赴任したものの、カスティーリャとの戦いで病いを得、また財政の悪化で諸侯や都市、農民が離反し、給料未払いの傭兵(ようへい)が蜂起(ほうき)するなど、失意のうちに71年帰国した。日ごろの豪奢(ごうしゃ)な暮らしぶりと宝石についての鑑識眼(太子のルビーは現王室の王冠に飾られている)でも知られるが、父王より早く死没し、太子の次子がリチャード2世として王位を継いだ。

[松垣 裕]


エドワード(2世)
えどわーど
Edward Ⅱ
(1284―1327)

プランタジネット朝のイギリス王(在位1307~27)。エドワード1世の四男。王としての資質を欠き、寵臣(ちょうしん)に頼って専制し、貴族らの反抗にあう。スコットランドにも敗れたが、1322年貴族軍を破って専制を復活した。フランス王シャルル4世の妹である王妃イサベラIsabella(1292―1358)にも背かれ、ガスコーニュ領問題折衝のために王妃の渡仏を許したが、26年、フランスに亡命中の与党を集めた王妃と皇太子らの攻撃にあう。王はイングランド西部に逃れたが逮捕され、貴族、庶民諸階層の支持を失い王位を追われた。

[富沢霊岸]


エドワード(4世)
えどわーど
Edward Ⅳ
(1442―1483)

ヨーク朝初代のイギリス王(在位1461~83)。ランカスター朝ヘンリー6世に対し、父ヨーク公が王位を要求して起こした反乱(ばら戦争の発端)により戴冠(たいかん)したが、従兄(いとこ)ウォーリック伯と争い、一時は国外に逃れた。しかし1471年帰国し、政敵を倒して復位し、王座を確保した。晩年はフランスに大軍を進めて有利な条約を結び、諸国との通商を盛んに行ったほか、財政改革にも熱心で、王国を繁栄に導いた。

[松垣 裕]


エドワード(5世)
えどわーど
Edward V
(1470―1483)

ヨーク朝第2代のイギリス王(在位1483.4~6)。父エドワード4世の長男として生まれ、1歳のときプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)となる。父王の死により、12歳で王位を継承したが、叔父グロスター公リチャード(後のリチャード3世)に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉された。ついで、王は庶子であることを理由にリチャードによって退位させられ、塔の中で謀殺された。

[松垣 裕]


エドワード(8世)
えどわーど

ウィンザー公

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百科事典マイペディア 「エドワード」の意味・わかりやすい解説

エドワード[3世]【エドワード】

プランタジネット朝イングランド王(在位1327年―1377年)。エドワード2世の子。スコットランドに勢力を伸ばしたほか,フランドル地方の実権を得るため,フランスのカペー朝が断絶したのに乗じ,王位継承権を主張して出兵し百年戦争を開始した。この王の治下で議会は上下両院に分かれた。ガーター勲章の制定者。
→関連項目エドワード[黒太子]クレシーの戦ジョン・オブ・ゴーントバロア朝

エドワード[6世]【エドワード】

イングランド王(在位1547年―1553年)。ヘンリー8世と三番目の妃ジェーン・シーモアの間の子。9歳で即位。政治の実権はサマセット公とついでノーサンバーランド公の2人の摂政の手にあったが,治世中に英国国教会の普及,礼拝統一法の制定(1549年,1552年),共通祈祷書の作成など新教化が著しく進んだ。
→関連項目ウォリック伯ケットの乱サマセット公レスター伯

エドワード[1世]【エドワード】

プランタジネット朝イングランド王(在位1272年―1307年)。ヘンリー3世の子。皇太子の時シモン・ド・モンフォールを敗死させて貴族の反乱を鎮圧。即位後諸種の立法により,行政・司法を改革。ウェールズを征服し,スコットランドにも勢力を伸ばし,その戦費調達のため模範議会を召集した。
→関連項目ウォーレスエドワード[2世]ブルース

エドワード[黒太子]【エドワード】

イングランド王エドワード3世の長子。黒太子Edward the Black Princeの呼名は黒い甲胄を着用していたことに由来するらしい。百年戦争で弓兵を率いて活躍,ポアティエの戦でフランス王ジャン2世を捕虜とし,ブレティニーの和でその領土の大半を獲得した。
→関連項目クレシーの戦ジョン・オブ・ゴーントリチャード[2世]

エドワード[2世]【エドワード】

イングランド,プランタジネット朝の国王(在位1307年−1327年)。エドワード1世の子。カーナボン城で〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の称号をえた最初の英国皇太子。摂政として〈大憲章の確認〉を行ったが,父親とは異なり,性格に強さを欠き,寵臣に横暴を許し,スコットランドとの戦いに敗れ,その国王ロバート1世に独立を認めた。フランス王シャルル4世の妹である王妃イサベラと不仲になり,王位を追われ,1327年バークリー城で暗殺された。
→関連項目ブルース

エドワード[8世]【エドワード】

もと英国王。ジョージ5世の子。第1次大戦に従軍。社会問題に関心深く,スポーツを好み,人望が厚かったが,1936年即位後まもなく離婚歴のある米国人シンプソン夫人との結婚問題から同年末退位。ウィンザー公Duke of Windsorの称号を受け,西インドのバハマ諸島総督(1940年―1945年)となる。
→関連項目ジョージ[6世]ボールドウィン

エドワード[7世]【エドワード】

英国王(在位1901年―1910年)。ビクトリア女王の子。皇太子時代から国際的に活動。60歳で即位。王朝名ハノーバー家をサックス・コーバーグ・ゴータ家と改称。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の帝国主義に対抗。英仏・英露の三国協商成立に大きな貢献をした。
→関連項目ジョージ[5世]

エドワード[4世]【エドワード】

ヨーク朝初代のイングランド王(在位1461年―1483年)。ばら戦争中の1461年,ランカスター家のヘンリー6世を追放して即位。1470年ヨーク派に分裂が生じたためオランダに亡命したが,翌年復位。財政を整え,商工業の育成に努めた。
→関連項目ヨーク朝ランカスター朝

エドワード[湖]【エドワード】

アフリカ中央部,アフリカ大地溝中の湖。コンゴ民主共和国とウガンダの国境にある。セムリキ川を経て北方のアルバート湖に注ぎ,白ナイルの水源の一つ。周辺は国立自然公園となっている。1889年H.スタンリーが探検。湖面標高912m,面積2325km2

エドワード[懺悔王]【エドワード】

ウェセックス王家最後のイングランド王(在位1042年―1066年)。フランスのノルマンディーで育ち,デーン朝が絶えたので帰国して即位。敬神の念はあったが,政治的に無能,国内は混乱し,死後ノルマン・コンクエストを招いた。
→関連項目ヘースティングズの戦

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エドワード」の意味・わかりやすい解説

エドワード
Edward

[生]1002./1005. イズリップ
[没]1066.1.5. ロンドン
イギリス,アングロ・サクソン時代のイングランド王(在位 1042~66)。アゼルレッド2世の子。信仰深く「懺悔王」の異名をもつ。デーン王朝カヌートがイングランドを支配している間は母エマの故国ノルマンディーに亡命。デーン王朝が終わると帰国して即位。ノルマン人を多く用い国内は混乱した。ウェストミンスター寺院の聖堂を建立し(1065聖別),1161年に聖者に列せられた。嗣子がなかったため死後ノルマン・コンクェストを招いた。

エドワード
Edward, the Black Prince

[生]1330.6.15. オックスフォードシャー,ウッドストック
[没]1376.6.8. ウェストミンスター
イングランド王エドワード3世の長男。黒い鎧を愛用したことから「黒太子」の異名がある。軍事的才能に秀で,百年戦争初期にクレシー (1346) ,ポアティエ (55) などでフランス軍に大勝。フランス王ジャン2世 (善良王) を捕虜にしたが,みずから臣従の礼をもってこれを遇し,騎士道の華とされる。転戦中病にかかり,帰国後死去。

エドワード
Edward(Eadweard), the Elder

[生]870
[没]924.7.17. チェスター
イギリス,アングロ・サクソン時代のウェセックス王 (在位 899~924) 。アルフレッド大王の長男。「長兄王」と呼ばれる。妹で「マーシア人の女王」と呼ばれたアゼルフレッドと協力してデーンロー地方のデーン人を撃破して国土回復に努めた。

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世界大百科事典(旧版)内のエドワードの言及

【リチャード[3世]】より

…ヨーク公リチャードの三男。1460年父が戦死したのち兄を助け,61年兄エドワード4世の即位後グロスター公に叙される。70年ヨーク朝の最大の支柱で国王擁立者であったウォリック伯が離反し,ランカスター朝のヘンリー6世が王位に復した。…

※「エドワード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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