芭蕉(ばしょう)の俳諧(はいかい)紀行。1689年(元禄2・芭蕉46歳)の3月27日、門人河合曽良(かわいそら)を伴って江戸を旅立ち、奥羽、北陸の各地を巡遊、8月21日ごろ大垣に入り、さらに伊勢(いせ)参宮へと出発するまでの、約150日間にわたる旅を素材とした俳諧紀行である。書名は、仙台の章の次に「おくの細道の山際に十符(とふ)の菅有(すげあり)」とみえる地方的名所の地名により、陸奥(みちのく)に細々と続くはるかな道筋、俳諧の細き一筋の道の意をも込め、さらに在原業平(ありわらのなりひら)の東下(あずまくだ)りで著名な東海道の歌枕(うたまくら)「蔦(つた)の細道」をも意識したうえでの命名であったと考えられる。草稿本の成立は1692年6月以後翌年4月末までの間と思われるが、これにさらに推敲(すいこう)を加えて決定稿とし、能書家の素龍(そりゅう)に依頼した清書本が完成したのは1694年初夏である。本書は芭蕉の没後遺言により去来(きょらい)に譲られたが、現在は福井県敦賀(つるが)市の西村家蔵となっている(西村本)。芭蕉自筆の成稿本は伝存していないが、草稿本を曽良が書写した曽良本、成稿の清書を依頼された素龍書写の別本に柿衛(かきもり)本がある。芭蕉没後の1702年、京都の書肆(しょし)井筒屋庄兵衛(いづつやしょうべえ)方より板行され、以後版を重ねて広く世に行われた。
[久富哲雄]
芭蕉は3月27日(陽暦5月16日)の早朝、門人曽良を道連れに、知友門弟たちとの離別の情を「行春(ゆくはる)や鳥啼(とりなき)魚の目は泪(なみだ)」の句に託して旅立ち、草加(そうか)、室(むろ)の八島(やしま)を経て日光山東照宮に詣(もう)で、黒羽(くろばね)滞在中には雲巌寺(うんがんじ)に仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)山居の跡を訪ね、謡曲の名所殺生石(せっしょうせき)、遊行柳(ゆぎょうやなぎ)を見たのち、待望の白河(しらかわ)の関址(せきし)を越えて、ようやく旅心が定まった。須賀川に旧知の等窮(とうきゅう)を訪ねて「風流の初(はじめ)やおくの田植うた」を披露。浅香山、信夫(しのぶ)もじ摺(ずり)の石、佐藤庄司(しょうじ)の旧跡、武隈(たけくま)の松などを見て、5月4日(陽暦6月20日)仙台に入り、近郊の歌枕を訪ね、画工加右衛門(かえもん)の風流心に打たれる。壺碑(つぼのいしぶみ)(多賀城碑)を見て塩竈(しおがま)神社に詣で、松島の勝景を中国の洞庭湖や西湖の眺めにも劣らぬと賞賛するが、絶景を眺めたときには詩作を控えるという中国の文人的姿勢に倣って発句を記載しない。石巻(いしのまき)を経て平泉に至り、奥州藤原氏三代の栄華の跡に涙を流して「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」と詠み、自然の猛威に堪えぬいた光(ひかり)堂をたたえて「五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂」と残す。出羽(でわ)国尾花沢(おばなざわ)に清風(せいふう)を訪ねてくつろいだのち、立石寺(りっしゃくじ)に詣でては「閑(しづか)さや岩にしみ入蝉(いるせみ)の声」。最上(もがみ)川を下り、出羽三山を巡礼して、鶴岡、酒田から象潟(きさかた)に至り、松島は笑顔の美人、象潟は悲愁の美人と対比的に叙述して「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」。越後(えちご)路では「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがは)」と旅愁を詠じ、金沢、小松、那谷寺(なたでら)、山中温泉と来て曽良に別れ、福井から等栽(とうさい)とともに敦賀(つるが)に行き、西行(さいぎょう)ゆかりの色(いろ)の浜に遊んでは「寂しさや須磨(すま)にかちたる浜の秋」。露通(ろつう)の出迎えを受けて大垣に入り、門人たちから歓待されたが、やがて9月6日(陽暦10月18日)伊勢の遷宮を拝もうと「蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋(ゆくあき)ぞ」の句を残して大垣を旅立つところで紀行は結ばれる。
[久富哲雄]
『おくのほそ道』は芭蕉の紀行のなかでもっとも優れた、完成された作品として定評があり、日本文学史上でも屈指の紀行作品として位置づけられている。その文章は格調の高い名文で、地の文と発句とが照応映発して詩的世界を構成している。また旅の事実を素材としてとらえ、文芸作品としての完成を目ざすために、旅の事実にこだわらず構想を練り、興趣を盛り上げている。『おくのほそ道』が単なる旅の体験的事実の羅列的記録ではなく、創作性豊かな作品であることは、随行者曽良が丹念に書き留めた『曽良旅日記』の記事と対比してみれば明らかとなる。なお、芭蕉がこの旅において俳風の新しい展開についてくふうし、不易流行(ふえきりゅうこう)論を考案したことも忘れることはできない。本書が世に出てから、奥羽・北陸行脚(あんぎゃ)の追随者が多く出たことが注目される。路通、支考(しこう)、桃隣(とうりん)、淡々(たんたん)、蕪村(ぶそん)、暁台(きょうたい)、白雄(しらお)その他数多く、それぞれに紀行作品を残している。明治時代の正岡子規(しき)、河東碧梧桐(へきごとう)以降現代に至っても、なお芭蕉の詩魂を慕って『おくのほそ道』の足跡をたどる人は後を絶たない。
[久富哲雄]
『西村真砂子編著『校本おくのほそ道』(1981・福武書店)』▽『井本農一著『芭蕉の文学の研究』(1978・角川書店)』▽『阿部喜三男著、久富哲雄増補『詳考奥の細道』(1979・日栄社)』▽『久富哲雄著『おくのほそ道全訳注』(講談社学術文庫)』
俳諧紀行。芭蕉著。西行五百年忌にあたる1689年(元禄2)に,門人曾良(そら)を伴って奥羽加越の歌枕をたずねた旅の体験を素材にし,92年起筆,推敲(すいこう)を重ねて94年擱筆(かくひつ),著者没後の1702年に刊行された。1巻1冊。素竜筆の清書本(著者自筆題簽)と同筆の姉妹本,および草稿から写した曾良筆の異本が現存する。〈古人も多く旅に死せるあり,予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず〉という主人公が,〈去年の秋〉隅田河畔の草庵に帰着したが,落ち着く間もなく,3月27日〈行く春〉とともに船出し,下野,陸奥,出羽,越後,越中,加賀,越前の各地をへて美濃の大垣に至るが,9月6日〈行く秋〉とともにそこをまた船出し,伊勢に向かうという内容。去年の秋の帰着から今年の秋の出発までという首尾の仕立ては,四季とともに永遠にめぐり行く旅を暗示するもので,〈日々旅にして旅を栖(すみか)とす〉る旅の心が主題。出発から帰着までを日次体で記す通常の紀行とは異なり,行動記録の日付が極端に少ない。作品は最奥の地〈平泉〉を感動の頂点に据えて,前半の表日本と後半の裏日本が対照的に構成されている。文章は和漢雅俗混淆の俳文体であるが,当時の紀行としては多分に擬古的である。文中に〈予〉の発句50,〈同行曾良〉の発句11,江戸・美濃の俳人の発句各1をはさむが,それらの中には,著者による執筆時の創作・改作がかなりある。〈奥の細道〉とは,元来は奥の大路から分かれた小路の称で,仙台藩の新興名所。古来の歌枕で有名な細道には〈蔦(つた)の細道〉があり,伝統的な〈旅の心〉を描く業平の東下りで広く知られた。それに対抗して,新しい旅の心を描く元禄の東下りの題号に無名の細道を選び,これに日常世界から非日常的な〈奥〉の世界への通路の意をもたせたのであろう。古人の跡を求めて歌枕探訪の旅に出た主人公が,〈奥〉の受洗で独自の〈風流〉に開眼する点に,作品の意義があろう。《幻住庵記》で俳文の〈記〉の創出に成功した著者が,次の試みとして〈道の記〉の創出にとりくんだもので,前者が鴨長明の《方丈記》をふまえたように,これも当時《長明道の記》と称された《東関紀行》をふまえている。なお,同行の曾良には詳細な旅日記がある。
→蕉風俳諧
執筆者:白石 悌三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
俳諧紀行。1冊。芭蕉作。版本は芭蕉の依頼によって素竜(そりょう)が清書した素竜清書本(素竜跋)を底本として1702年(元禄15)に刊行。芭蕉第5の紀行文。1689年3月27日,門人曾良(そら)をともなって江戸を発ち,奥羽・北陸地方の歌枕・名所・旧跡をめぐり,8月20日すぎに大垣(現,岐阜県)に至る旅をもとに創作されたもので,旅の実際は「曾良旅日記」に詳しい。素竜清書本(西村本)は「日本古典文学大系」所収。芭蕉自筆本は「芭蕉自筆奥の細道」(岩波書店刊)に影印と翻刻を収録。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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