スウェーデンの物理化学者。オストワルト、ファント・ホッフらに協力して「物理化学」の新領域を開拓した。2月19日、ウプサラ付近の土地管理人でウプサラ大学の理事になったこともある父の二男として生まれる。17歳でウプサラ大学に入学し、やがて学位論文のテーマに物理学を選んだが、指導教官とあわず、1881年にストックホルムへ移った。そこで電解質溶液の電気伝導度の研究を行い、1884年に学位論文としてウプサラ大学に提出した。この論文で彼はすでに独特の電離説、すなわち電解質が水中でイオンに解離しているとする説を展開していたが、高い評価を得られず、深く失望した。イオン解離説というような破天荒な考えは、当時「化学でもなければ物理学でもなかった」のである。その価値と重要性をいち早く評価し、世に紹介したのは、まさにそのころファント・ホッフと協力して「物理化学」という新領域を開拓しつつあった大オストワルトであった。こうしてアレニウスはオストワルト、ファント・ホッフと「イオン主義者」ionists三人組を構成し、イオン説の普及、宣伝に努めるとともに、ライプツィヒ学派の中心人物の一人として、物理化学の拡大、強化に献身することとなった。やがて1895年ストックホルム工科大学の物理学の教授に任命され、1896年から1905年まで同大学学長の任にあった。この間1903年にはその「電離説による化学の進歩への重大な貢献」に対してノーベル化学賞が授与された。彼をいち早く評価して世に紹介したオストワルトの受賞(1909)に先だつこと6年である。アレニウスのイオン解離の思想は、やがてビエルムN. J. Bjerrum(1879―1958)、デバイ、ヒュッケルらの強電解質理論へと展開していくことになる。1905年アレニウスはベルリン大学からの招きを辞退したあと、同年に新設されたノーベル研究所の物理化学部長となり、1927年10月2日の死去までこの地位にあった。
アレニウスの名を不朽にしているもう一つの業績は、化学反応速度と温度の関係についての、いわゆるアレニウスの式の提唱である。1889年の「酸によるショ糖の転化速度」の研究で、反応速度が温度とともに指数関数的に増大することを論ずるなかで、いわゆる活性化、あるいは活性化エネルギーの概念を導入したが、これは現代反応速度理論の体系化への道を開くものとなった。彼は反応速度と温度の関係を導くにあたって、ファント・ホッフが定式化した化学平衡の理論を採用した。速度過程を平衡状態の問題に連関させるこの手法は、のちにアイリングらの絶対反応速度理論へと発展していく。晩年の25年間、アレニウスの興味は地学、気象学、宇宙論、さらには免疫学から生物学にまで及び、これらの領域を、当代の物理学と化学、さらにいうならば自らの開拓した理論化学(物理化学)の諸法則により解釈しようとした。彼は、当時ようやく確立した熱力学の第一法則(エネルギー保存則)、第二法則(エントロピー増大則)と整合性を保つ宇宙論の樹立を企図し、エントロピー減少過程のある星雲の存在を考察したりした。
[中川鶴太郎]
『アレニウス著、寺田寅彦訳『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』(岩波文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
スウェーデンの物理化学者.17歳のときウプサラ大学に入学,とくに数学において非凡な才能を発揮した.1884年ウプサラ大学に学位論文“希薄電解質溶液の電気伝導に関する研究”を提出.この学位論文のなかには,のちの電離説につながる電気伝導性を示す活性分子という考え方が示されている.1887年溶液中の電解質が成分イオンに解離していることを明確に主張し,電気的解離の理論(電離説)を創始した.この業績により,1903年ノーベル化学賞を受賞.1886~1890年F.W. Ostwald(オストワルト),F.W.G. Kohlrausch,L. Boltzmann,J.H.van't Hoff(ファントホッフ)らのもとでそれぞれ研究を行った.この間,電離説を完成させ,化学反応の分野でも活性分子,活性化エネルギーの概念を導入し,1889年反応速度と絶対温度との関係を示した式を発表した(アレニウス式として知られている).1889年ウプサラ大学に戻り,生理学者O. Hammarstenの実験室で研究をした.1902年にはドイツのP. Ehrlich(エールリヒ)のもとで研究し,物理化学の面から免疫化学にも寄与している.1895年ストックホルムの高等専門学校(現ストックホルム大学)の教授,続いて学長となった.1905年に創設されたノーベル物理化学研究所所長に就任,1909年には実験室が開かれ,物理化学,生理化学,免疫化学,気象学,宇宙物理学など広い科学分野を研究し,死去の数か月前まで所長の任にあった.晩年は科学知識普及のための執筆活動に努めた.大気中の二酸化炭素濃度の変動による気温の変化を最初に指摘したことでも有名である.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
スウェーデンの物理化学者。電解質溶液の電離説を提唱し,F.W.オストワルト,J.H.ファント・ホフらとともに物理化学の建設に主導的な役割を果たした。これらの業績により,1903年ノーベル化学賞を受けた。ウプサラ大学で物理学を学び,1884年希薄電解質溶液の電気伝導に関する研究で学位を得た。この学位論文の中には,後の電離説のひな型といえる〈電気伝導性を示す活性分子〉という考えが述べられている。86年に発表されたファント・ホフの浸透圧に関する論文の中に自説を強く支持する結果が含まれていることを知り,87年の論文の中で溶液中の電解質が成分イオンに解離していることを明確に主張し,電気伝導度と氷点降下から求めた電解質の解離度が互いによく一致することを示した。1886年から90年にかけて,オストワルト,F.W.G.コールラウシュ,L.ボルツマン,ファント・ホフらのもとで研究を続けた後,91年ストックホルム大学の講師として母国に帰り,95年教授となった。その後学長を務めた後,1905年には新設されたノーベル物理化学研究所長に就任し,終身その地位にとどまった。1889年に発表された反応速度の温度依存性に関する理論は〈アレニウスの式〉としてよく知られている。晩年には免疫化学,宇宙物理学および地球物理学の研究を行った。大気中の炭酸ガス濃度の変動による気温の変動を指摘したことは有名である。多くの教科書や通俗科学書を著し,それらは多くの外国語に翻訳された。
執筆者:菅 耕作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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… k=A exp(-Ea/RT)ここでRは気体定数,AおよびEaは反応に固有の定数で,Aは頻度因子,Eaは活性化エネルギーと呼ばれる。この関係は1889年スウェーデンのS.A.アレニウスにより提出されたもので,アレニウスの式と呼ばれる。この関係はかなり広い範囲で成り立ち,また活性化された分子間の衝突により反応が起こると考えることによって,Eaは活性化のために必要なエネルギー,Aは単位時間あたりの衝突回数という明らかな意味をもつので,現在でも広く用いられている。…
…この法則は分子量測定におおいに役立った。1884年S.A.アレニウスは,電解質は溶液中ではイオンに解離しているという〈電離説〉を発表した。これはラウール,ファント・ホフ,オストワルトらの観察を説明できる新しい説であった。…
…岩塩ドームの例が最も有名である。岩塩ドームの形成が浮力に基づくものであることを初めて指摘したのは,スウェーデンの化学者S.A.アレニウスであった。地下のある深さ以上のところでは,砕屑岩の密度は岩塩の密度より大きくなることがある。…
…電解質とよばれる物質の溶液は,電気を導く性質をもっているばかりでなく,蒸気圧や浸透圧などの熱力学的な性質の面でも,ショ糖などで代表される非電解質の溶液とは異なる挙動を示す。電解質と非電解質との相違を説明するためにS.A.アレニウスが提出した理論がアレニウスの電離説である。これより先にM.ファラデーは,電解質溶液に電場を加えると,電解質がイオンに分かれて電気を導くと考えた。…
※「アレニウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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