チュルク諸語のいずれかを使用する民族を指す呼称で,現在,東方のヤクート族から西方のトルコ,ガガウズ,カライムの諸族に至るまで,ユーラシア大陸の諸地域に,広く分散して居住している(図参照)。しかし彼らは,必ずしも古くからこれらの諸地域に居住していたのではなく,たとえば,現在トルコ族の住むアナトリアは,もともとヒッタイト人やギリシア人の住地であり,また現在ウズベク族,ウイグル族などの居住する中央アジアのオアシス定住地帯は,ソグド人,トハラ人などアーリヤ系諸民族の住地であった。すなわち,トルコ系諸民族が,その現住地に居住するにいたるまでには,〈移動〉〈征服〉を中心にくりひろげられた彼らの長い歴史があり,その意味では,トルコ民族史は,トルコ系諸民族の移動と征服活動の歴史であったともいえる。
トルコ系諸民族がもともとどこに居住していたか,彼らの原住地がどこであったかという問題については,現在なお定説がない。原住地を,少なくともウラル山脈以東の草原地帯に求める説が有力ではあるが,ウラル以西にも古くからトルコ系諸民族の活動が見られたとする説もあって,なお一定しない。しかし,前3世紀に,モンゴリアを中心に強力な遊牧国家を建設した匈奴が,その国家の構成要素として,いくつかのトルコ系諸民族をも包含していたであろうという点では,ほぼ学界の意見が一致している。もっとも,それらの諸民族のうちで,その民族名が明確に記録されているものは,バイカル湖畔に遊牧生活を送り,中国人によって〈丁零〉と書き記された民族にしかすぎない。この〈丁零〉が,いかなるトルコ語を写したものであるかはなお明確ではないが,彼らがトルコ系諸民族のうちで,最も東方に居住していたその一支族であったことはまずまちがいがない。中国文献によると,丁零は,はじめ匈奴に従属したが,後1世紀,匈奴の衰退に乗じてその支配下を脱し,2~3世紀,鮮卑の台頭の時代には,その北方(おそらく外モンゴリア)に居住して勢力を蓄え,3世紀前半,鮮卑が解体すると,〈高車丁零〉(〈高輪の車を使用する丁零〉)としてモンゴリアの支配権を獲得,4世紀半ばには,少なくとも人口10余万,馬13万匹,牛・羊億余万を擁する強大な〈丁零勅勒〉として中国文献に登場する。ここに見える〈勅勒〉が,後代の史料に見える〈鉄勒〉〈突厥(とつくつ)〉と同様,〈チュルク〉すなわち〈トルコ〉の音を写したものであることはまず誤りなく,したがって〈丁零勅勒〉とは〈丁零トルコ族〉の意味と解される。高車丁零は5世紀初頭,新たに勃興した柔然の支配下に組み入れられたが,5世紀末,柔然が衰えると,その一部は西方のジュンガル盆地に移動して,高車国を建設した。
6世紀半ば,突厥すなわちトルコと呼ばれる新たなトルコ系遊牧民族が勃興して,高車を併合し,柔然を滅ぼし,さらにカスピ海北方のトルコ系ハザル王国をも従属させ,モンゴリアから中央アジア,カスピ海北辺に至る広大な地域を支配する強力な遊牧国家を建設した。中国文献によると,この突厥には,東はバイカル湖の南岸から,西はカスピ海の北岸に至る広大な地域に分布する〈鉄勒〉と呼ばれる民族も服属していたという。この鉄勒という語も,前述のごとく,〈チュルク〉〈トルコ〉の音訳と考えられる。すなわち,少なくとも6世紀後半には,突厥の支配下に,トルコ系諸民族がバイカル湖畔からカスピ海岸に至るきわめて広大な地域に分布していたことが明らかである。なお〈突厥〉と〈鉄勒〉という名称は,前者が,トルコ民族である阿史那氏族を中核として形成された特定の政治的組織(国家)を示す名称であったのに対し,後者はトルコ民族一般を指す名称であったと思われる。突厥は6世紀後半,モンゴリアの東突厥と中央アジアの西突厥に分裂し,前者は中国の隋・唐両王朝,後者はササン朝ペルシア,ビザンティン帝国と種々の関係をもったが,結局,唐王朝の攻撃を受けて弱体化し,8世紀半ば,もともと突厥の支配下にあったトルコ系ウイグル族によって滅ぼされた。突厥はトルコ民族がアジアの草原地帯に建てた最初の強力な遊牧帝国であっただけでなく,トルコ民族として,初めて自らの文字(突厥文字。古代トルコ・ルーン体文字)を用いていわゆる〈突厥碑文〉を残した民族としても,トルコ文化史上にきわめて重要な足跡を残した。この突厥文字を用いて石に刻まれたトルコ語が,現在,知ることのできる最古のトルコ語の実例である。
突厥に代わってモンゴリアの支配権を握ったウイグル(中国では回鶻,回紇と写された)は,中央アジアの草原地帯に居住していた同じトルコ系のカルルクQarluq族などをも支配下に組み入れ,突厥の継承国家として,中国の唐王朝とも和戦両様の密接な関係をもったが,9世紀半ば,同じトルコ系のキルギス族の攻撃を受けて壊滅した。この際,国を失ったウイグル族は,モンゴリアの故地を捨てて,中国の北辺(10万人以上ともいう)から西は天山・タリム盆地方面(十数万~30万人ともいう)へと移動し,甘州,ビシュバリク,高昌,クチャ(亀茲),チュー川・タラス川方面で新たな生活を開始した。このうち,ビシュバリク,高昌方面におちついた者たちは,9世紀後半,この地の支配権を獲得し,カラシャフルからクチャに至る天山南麓のオアシス地帯をも支配下におく〈西ウイグル王国〉(〈天山ウイグル王国〉ともいう)を建設し,13世紀のモンゴルの侵入時代までこの地域の支配を続けた。一方,チュー川・タラス川方面に向かったウイグル族は先住のカルルク族などと交わって〈カラ・ハーン朝〉(840-1212)と呼ばれる新国家を建設し,やがて9世紀末には,その支配権をタリム盆地西部のオアシス定住地帯にも及ぼした。かくして,ウイグル族の西方移動を契機として,従来アーリヤ人の居住地であった東トルキスタンには,東の西ウイグル王国と西のカラ・ハーン朝という二つのトルコ族の国家が並立し,以後この地域のトルコ化が徐々に進行し,それは13世紀のモンゴルの侵入期までにほぼその完成を見た。
ところで,もともと草原地帯で遊牧生活を送っていた頃のトルコ族は,宗教的にはシャマニズムの信奉者であり,突厥の時代に仏教が,またウイグルの時代にマニ教が彼らの間に導入されたことはあっても,それらの外来宗教がトルコ系遊牧民の伝統的なシャマニズム信仰を根底からくつがえすまではいたらなかった。しかし,ウイグル族の西方移動の結果,トルコ系遊牧民のかなりの部分が定住化に向かうと,この情況にも変化が生じた。まず西ウイグル王国では,従来トゥルファン盆地を中心とするオアシス定住地帯で信奉されていた仏教,マニ教,ゾロアスター教,景教のうち,定住民となったウイグル族によっては特に仏教が信仰された。しかしこの場合,ウイグル族は仏教の帝釈天を,マニ教やゾロアスター教の神の名であるホルムズダと呼ぶなど,異教の神格を通じて仏教の神格を理解していた事実が知られており,そこには異なった宗教の明らかな習合が見られた。この事実が示すように,定住民化したウイグル族は,その定住先で行われていた外来の諸文化を継承・発展させた一種の混合・折衷文化を形成していった。これに対して,カラ・ハーン朝のトルコ族は,10世紀半ば,西方から伝来したイスラムに改宗すると,トルコ族最初のイスラム王朝として,中央アジアのイスラム化を促進する一方,〈トルコ・イスラム文化〉と呼ばれる新しい文化の創出に貢献した。彼らはまた10世紀末,西トルキスタンにも進出して,イラン系のサーマーン朝を滅ぼし,この地のトルコ化をも促進した。この西トルキスタンにおける,イラン系王朝に代わるトルコ系王朝の成立は,シル・ダリヤ以北の遊牧トルコ族の西トルキスタンへの集団的移住に大きな道を開き,やがてトルコ族の西アジア・イスラム世界への本格的な進出をもたらした。他方,カラ・ハーン朝によって促進された西トルキスタンのトルコ化は,16世紀におけるウズベク族のこの地への新たな進出によって完成を見る。
執筆者:間野 英二
トルコ族と西アジア・イスラムとの関係は,8世紀の初めにアラブ軍が中央アジアに進出し,多くのトルコ族が戦争捕虜として,また購入奴隷として西アジア・イスラム世界にもたらされたことを発端とする。そして,10世紀の中ごろにシル・ダリヤ北方の草原地帯で遊牧生活を送り,素朴なシャマニズムを信仰していた〈オグズ〉と総称されるトルコ系部族に属する人びとの一部が,やがて南下して,マー・ワラー・アンナフルに入り,イスラムを受容した。中世のイスラム史料は,これらイスラム化したオグズ族を〈トゥルクマーンTurkmān〉(トルクメン族)とよんだ。彼らはさらに南下し,北東イランのホラーサーンに入ると,マシュハドを中心にセルジューク朝(1038-1194)を建てた。1055年にセルジューク朝の軍隊がイラクのバグダードを攻略して,ここに拠っていたシーア派イラン系のブワイフ朝を駆逐すると,西アジア・イスラム世界にセルジューク朝によるスンナ派政権が確立し,同時に,以後西アジアはトルコ族の政治的支配下に置かれた。
セルジューク朝による西アジア征覇は,中央アジアの遊牧トルクメンの西アジアへの移住を促進し,彼らの多くはビザンティン帝国領のアナトリアへ侵攻した。1071年に東部アナトリアのマラーズギルドで,セルジューク朝軍とビザンティン軍との戦いが行われ(マラーズギルドの戦),その結果,前者が勝利するとトルクメンは大挙アナトリアへ移住し,ルーム・セルジューク朝(1077-1308)が成立した。同王朝は,最初その首都を北西アナトリアのニカエア(イズニク)に置いたが,第1回十字軍の攻撃によってここを退くと,中央アナトリアのイコニウム(コニヤ)に首都を移した。同朝の下で12~13世紀の中央アナトリアは,南方の十字軍諸国家やイスラム諸王朝とビザンティン帝国およびヨーロッパとを結ぶ通商活動の中継地として栄え,多くのキャラバンサライ,モスク,マドラサが建てられた。13世紀後半にモンゴル族のイル・ハーン国(1258-1353)の支配権が中央アナトリアに及ぶと,商業の中心は北西アナトリアに移行し,この地に拠ったオスマン朝が勃興した。オスマン朝は14世紀中葉にその版図をバルカン半島に拡大し,以後19世紀にいたるまでバルカンを支配し,この間に多くのトルコ族がバルカンに移住したためトルコ・イスラム文化がこの地に移植された。1453年にコンスタンティノープルを攻略したオスマン朝は16世紀初頭までにアナトリアとバルカン全土を統合し,1517年にエジプトのマムルーク朝(1250-1517)を滅亡させて西アジア(イランを除く)世界をその支配下におさめた(オスマン帝国)。
アナトリアへ移住した当初,トルコ族の大部分は,なお遊牧生活を送っていたと推定されるが,16世紀までにその多くは,しだいに定住しはじめた。オスマン帝国時代のトルコ系遊牧民は,中央アナトリアを流れるクズルウルマク川を境に,その東にいる人びとはトルクメンTürkmenもしくはアシレットAşiret,西(バルカンも含む)にいる人びとはユルックYürükとよばれた。トルクメンは部族組織を比較的よく維持し,大きな集団を形成していたが,ユルックの場合は,小集団に分裂し,中央権力によっていくつかの軍事組織として掌握されていた。バルカンのユルックは,25戸ごとに一つの部隊(オジャクocak)に編成され,毎年1人ないし2人が兵役もしくは鉱山での力役に徴集された。西アナトリアのユルックの場合も,不正規の騎兵ないしは歩兵として徴用された。これに対して,東アナトリアのトルクメンの場合は,軍事組織として掌握されず,族長のもとに自治を許され,スルタンやベイレルベイ(州軍政官)に納税するほか,イラクあるいはイラン方面への糧食・軍需品の運搬にたずさわった。
アナトリアのトルコ系遊牧民は多数の羊,ヤギを飼育し,それによって得られる乳製品,羊毛,毛皮,食肉などを都市に供給し,彼らが中央アジアからもちきたった技術を駆使したじゅうたん,キリム(平織の敷物),フェルト,毛織物は,13世紀以降アナトリアの重要な輸出品であった。また,トルクメンは,前2世紀のパルティア王国時代以来の交配技術を取り入れて,アラブのヒトコブラクダと中央アジアのフタコブラクダとの交配種であるヒトコブ半のラクダ(トルコでは,〈トゥルtulu〉ないしは〈トルクメンのラクダ〉とよばれ,夏の暑さにも冬の寒さにも耐久力をもつ)を飼養するなどして,交易・輸送に活躍した。つまり,遊牧民はその機動力によって,都市と農村を結ぶ潤滑油の役割を果たした。また,コニヤの南方の草原地帯では多数の軍馬が飼育された。16世紀末以後東アナトリアのトルクメンの一部が西方に移住し,ユルックと混合したが,その背景にはアナトリアの通商路が西方へ移動したことと関係する。
遊牧民の生活形態は,家畜に採食させる必要上,冬営地(クシュラクkışlak)と夏営地(ヤイラクyaylak)との移動を基本とし,冬営地は標高数百mの平原で,子羊の出産を待ち,4月末以降,標高2000~3000mの夏営地に移る。夏営地では搾乳による乳製品の生産が行われ,そこにはしばしば大きな市(いち)が形成された。オグズ部族連合に起源をもつトルコ系遊牧民は,その始祖伝説である英雄叙事詩〈オグズ・ハーン伝説〉をはじめとする口承伝承をもち,アーシュクāşıkとよばれる吟遊詩人が活躍した。また,騎馬,弓術,レスリングなどの武術にすぐれ,遊牧生活の現実に適合した独特の暦をもっている。今日,アナトリアのトルコ人は,すでに大部分(99%以上)が定住生活に入っているが,彼らの生活文化には,なお遊牧時代のなごりが強く残されている。
執筆者:永田 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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