ミケロッツォディバルトロメオ(英語表記)Michelozzo di Bartolomeo

改訂新版 世界大百科事典 の解説

ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ
Michelozzo di Bartolomeo
生没年:1396-1472

初期ルネサンス時代のイタリア彫刻家建築家フィレンツェに生まれ,ギベルティ助手ドナテロの共同制作者となり,建築家としてコジモ・デ・メディチに仕えた。古代の装飾モティーフに対する繊細な感覚をもち,建築作品では,内部において洗練された彫塑的装飾性(サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会,ピストイア)と軽くのびやかな空間の広がり(サン・マルコ修道院図書館,フィレンツェ)を,また外部において秩序だった階層美と力感(パラッツォ・メディチ・リカルディ,フィレンツェ)を表現した。都市内邸宅パラッツォと郊外住宅ビラ(メディチ家のためにフィレンツェ郊外に建てられた)の設計により,ルネサンス世俗建築の二大類型確立の先駆となった意義は大きい。北イタリア,東欧にも足をのばし,ルネサンス様式の普及に貢献した。彫刻作品には,対立教皇ジョバンニ23世の墓碑,枢機卿ブランカッチの墓碑,プラート大聖堂屋外説教壇等がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ
みけろっつぉでぃばるとろめお
Michelozzo di Bartolommeo
(1396―1472)

イタリアの建築家、彫刻家。ブルゴーニュ出身の仕立屋の子供としてフィレンツェに生まれ、同地に没。彼は彫刻家として再三ギベルティやドナテッロの助手をつとめたが、彼の重要性は1430年代のなかば以降の建築家としての活動にある。その代表作はサン・マルコ修道院の図書館、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の内陣、パラッツォ・メディチ・リッカルディ(パラッツォ)、そしてカレッジなどのメディチ家の別荘などである。これらの作品で彼は、ブルネレスキによって創始されたルネサンス建築の概念をさまざまに応用し、後の時代の範となるような建築様式を生み出した。その意味で、彼はブルネレスキの後の世代のフィレンツェ建築家のなかでもっとも重要な存在である。彼の建築にはブルネレスキのような天才的なひらめきはないかもしれないが、調和やバランスの感覚と古典的モチーフの使用の巧みさ、そして柔軟でときに大胆さのある応用力が認められ、その美術史上の意義は高く評価されている。

[石鍋真澄]

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百科事典マイペディア の解説

ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ

イタリアの彫刻家,建築家。初めギベルティ弟子,次いでドナテロの協力者として彫刻から出発したが建築に転向,1435年以降メディチ家の御用建築家として活動,ブルネレスキと並んで初期ルネサンスの建築界を代表。代表作のパラッツォ・メディチ・リカルディはパラッツォ建築の典型として,盛期ルネサンス建築に大きな影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ
Michelozzo di Bartolommeo

[生]1396. フィレンツェ
[没]1472
イタリアのフィレンツェ派の建築家,彫刻家。初め鋳造彫刻家として L.ギベルティに学び,のちドナテロに師事し,後者とは共同の工房をもった。しかし,1435年頃から次第に建築活動に関心を示し,フィレンツェのサン・フランチェスコ修道院やサン・マルコ修道院 (1437~52) などを手がけた。メディチ家のために多くの建築を手がけ,パラッツォ・メディチ (44~60頃) は,フィレンツェの邸館建築を代表する傑作となった。 46~51年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の工事にも参加。ミラノのメディチ銀行や聖エウストルジオ聖堂内ポルティナーリ礼拝堂なども著名である。

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