大改革(読み)だいかいかく(その他表記)Velikaya reforma

改訂新版 世界大百科事典 「大改革」の意味・わかりやすい解説

大改革 (だいかいかく)
Velikaya reforma

クリミア戦争敗北後のロシアで,1860年代前半を中心に皇帝アレクサンドル2世の下で行われた内政面の諸改革総称。帝政末期の自由主義的歴史家がその進歩性を称賛して使いはじめた用語。その中心をなす61年の農奴解放および64年の地方制度の改革(ゼムストボ)のほかに,さまざまな改革が行われた。64年11月20日に実施された司法制度の改革は,それまでの身分別の制度の撤廃とすべての身分に等しい制度の確立,裁判の公開,そして行政からの司法の独立をその主要な特色としていた。具体的には,地区裁判所の設置,陪審員制度と弁護士制度の導入などが注目されるが,先の三つの特色はいずれも徹底して実現されたとはいえず,農民の郷裁判所,宗教裁判所,軍法会議は存続し,ツァーリ政府による司法組織への圧力もみられた。

 教育制度については,1863年6月18日の大学令で教授会組織を中核とする大学自治原則(1835年に廃止されていた)が復活され,64年7月14日の初等国民学校令で宗教,倫理を主要な教育目的とした初等学校の開設が促進され,同年11月19日の中等学校令では7年制の中等学校(古典ギムナジアと実科ギムナジア)の開設が促進された。出版物の検閲は1863年初頭にその管轄文部省から内務省に移されたが,65年4月6日に,その後1905年革命まで効力をもつことになる新しい規則が定められ,事前検閲が若干は緩和された。

 1862年春から改革の動きがみられた都市制度については,70年6月16日になって都市法が公布され,それまでの貴族商人支配する都市行政に代わって非身分的な都市自治の原則が提示された。しかし,市議会はその選挙でも財産による法定資格が定められ,実際には大ブルジョアジーと特権身分の代表が支配権を握り,その活動もツァーリの行政当局の監視の下にあった。軍制度については,61年末に陸軍大臣に就任したD.A.ミリューチンが強い反対勢力のなかで改革事業を推し進め,軍管区制を導入したほか,74年1月1日の兵役令によって国民皆兵の原則を提示し,現役期間を短縮し,予備役制を導入した。以上の〈大改革〉は,自由主義的原則に基づいてこれまでの身分的体制を解体しようとするものであったが,貴族およびツァーリ政府の支配も根強く,不徹底に終わった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「大改革」の解説

大改革(だいかいかく)
Velikie reformy

1856年に敗北に終わったクリミア戦争ののちに,新帝アレクサンドル2世は,改革派の官僚と皇帝に忠実な保守的官僚の両方を使って,農奴制を廃止し,社会を近代化するとともに,鉄道建設と工業発展を図る改革を開始した。まず1857年には鉄道建設促進の政策を打ち出し,そのために関税を引き下げ,古い金融機関の改革を始めた。57年から準備を始めた農奴解放は61年に実現され,つづいて63年には大学令による大学の自治の導入,64年には陪審裁判を導入する司法改革と全身分が参加する地方自治制を導入するゼムストヴォ改革,初等学校と中学校の改革,65年には検閲制をゆるめる改革が行われた。ポーランドの反乱が途中で生じたが,終始皇帝権力を利用して上から進められた改革であった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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