日本大百科全書(ニッポニカ) 「ショーロホフ」の意味・わかりやすい解説
ショーロホフ
しょーろほふ
Михаил Александрович Шолохов/Mihail Aleksandrovich Sholohov
(1905―1984)
ロシアの小説家。5月24日、ドン川流域のビョーシェンスカヤ村に生まれる。父は商店に勤務する身で、人妻であった母と正式に結婚したのは1912年になってからで、そのため、戸籍上は母親の連れ子、父ショーロホフの養子となっている。12年、村の小学校に入学したが、まもなくモスクワに行き、私立の予備中学校に移り、約3年間を送ったあと、第一次世界大戦のため故郷の近くのボグチャル市の中学校に転校した。やがて十月革命、国内戦の開始とともに学業を放棄して父のもとに帰る。ドン地方は国内戦がもっとも激烈に展開された主戦場の一つであったが、20年にソビエト政権が樹立されると、15歳の少年であったショーロホフも村の革命委員会に所属し、武器を持って反革命と戦い、かたわらコサックの非識字者解消運動に加わり、文化的な啓蒙(けいもう)活動を行い、アマチュア劇団を結成して革命の意義を宣伝した。単なる目撃者としてのみならず、自らの生命を賭(と)して参加した歴史の事件が、少年期から青春前期にかけての彼の精神に深刻な影響を残したことは疑いなく、この原体験の意味を問い、それをことばで表現せんとしたところから、彼の文学は生まれた。
1922年、ショーロホフはモスクワに出て、重労働の仕事で生活の糧(かて)を得ながら文学修業に励み、ドン地方の内戦を主題とする短編を書き始め、短編『ほくろ』(1924)で文壇にデビューし、2年間で25の短編と中編1編を書き、26年に、『ドン物語』『るり色の曠野(こうや)』の2冊の作品集を刊行した。21歳のときである。これで新進作家としての地位を確立したが、生活は苦しかった。その間、24年にマリヤ・ペトローブナと結婚し、25年末には父親を失っている。精神的にも物質的にも困難な時期であったが、26年末からビョーシェンスカヤに居を定め、革命を中心とする激動する時代に生きるコサックの運命を雄大なスケールのもとに描き出そうとする長編の執筆に専念した。こうして書き始められたのが『静かなドン』で、十数年の歳月を費やして、40年に完結した。この作品を書き進めながら、第二の長編『開かれた処女地』第1部(1932)を書き上げ、60年に完成、それと同時にレーニン文学賞を受賞。このほか、第二次世界大戦中には従軍記者として前線に赴き、ルポルタージュを発表、また短編『憎しみの教え』(1942)、未完の長編『彼ら祖国のために』(1943~44)を書いた。
第二次世界大戦後は、革命と国内戦のさなかで飢饉(ききん)のために親や兄弟を失い、独ソ戦で妻子と死別しながらも、不幸に耐え、力強く生き抜いた老運転手を主人公とする『人間の運命』(1956)を発表し、ソビエト文学界に揺るぎない地位を確立した。この間、1937年にソ連邦最高会議代議員、39年に科学アカデミー会員、61年に党中央委員に選出されている。ショーロホフの作品は国内だけではなく、世界各国でソ連文学の古典として広く読まれ、65年にノーベル文学賞を授与された。66年(昭和41)来日。84年2月20日没。
[水野忠夫]
『原久一郎・原卓也訳『世界文学全集13 ドン物語』(1966・集英社)』▽『横田瑞穂訳『世界文学大系94 人間の運命』(1965・筑摩書房)』