日本大百科全書(ニッポニカ) 「デブレツェン」の意味・わかりやすい解説
デブレツェン
でぶれつぇん
Debrecen
ハンガリー東部、ハイドゥー・ビハル県の県都。首都ブダペスト東方約190キロメートルにある同国第二の都市。人口21万1034(2001)。内外への鉄道の結節地点で、東部の経済、文化、政治の中心地である。医薬品、医療機器、食品、皮革、たばこなどの諸工業がある。大学(1550ころ創立)、アカデミー、図書館がある。民俗博物館は、ウィーンの豪商デリの遺贈品、内外の宝石、貴金属美術品、武具などの膨大なコレクションで有名である。
[古藤田一雄]
歴史
10世紀ごろにマジャール人が占領するまではスラブ人が住んでいた。1361年判事選出の自由、市場開催権などの都市権を獲得し、市場町としての基礎を確立する。オスマン・トルコの侵入により国土が三分割(1541)され、多くの都市が没落・衰退したなかで、ウシの輸出と手工業の発達に支えられて16~17世紀にはオルフェルド(大平原)の重要な交易都市に発展した。また新教徒(カルバン派)の中心地となり、1550年ごろの大学の創立(1912年設立のラヨシュ・コシュート大学を経て現デブレツェン大学に引き継がれる)、1561年の印刷所の設立によって、マジャール語の聖書や説話文学書(詩、物語、戯曲)などが刊行され、教育・文化の普及、さらには民族独立への民衆の政治思想の啓蒙(けいもう)に多大な影響を与えた。1693年には自由王国都市の称号を得て、市政の自治が保障されるようになった。
1848年、パリの二月革命に刺激されてハンガリー最初の自主責任内閣が樹立されたが、オーストリア皇帝軍の反撃を受けて政府と議会をデブレツェンに移し、49年4月14日ハプスブルク家のハンガリー王位の廃絶とハンガリーの独立を宣言した。しかし自国の安全に不安を抱いたロシア軍の介入を招き、蔵相兼国防委員会議長コシュートの呼びかけに応じた国民軍の善戦もむなしく、この独立戦争は失敗に終わった。第二次世界大戦末期の1944年12月22日、反ナチの臨時政府がソ連軍の解放したこの地に樹立され、同月28日には対独宣戦が布告されて、ふたたび自由と独立の拠点として重要な歴史的役割を演じた。
[古藤田一雄]