ヒルデブラント(読み)ひるでぶらんと(英語表記)Bruno Hildebrand

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒルデブラント」の意味・わかりやすい解説

ヒルデブラント
Hildebrand, Bruno

[生]1812.3.6. ナウムブルクアンデルザーレ
[没]1878.1.29. イェナ
ドイツの経済学者,統計学者。 W.ロッシャー,K.クニースとならぶ旧歴史学派の一人。ライプチヒ大学卒業後,ブレスラウ大学を経て,1841年マールブルク大学教授となったが,49~50年のヘッセン会議で進歩的政治思想を主張したため大学を追われスイス亡命。その後チューリヒ,ベルン,61年帰国後はイェナの各大学教授を歴任。 48年に『現在および未来の国民経済学』 Die Nationalökonomie der Gegenwart und Zukunftを発表し,国民経済の歴史性,民族性,倫理性を強調した。古典学派と社会主義を批判し,流通手段に着目した現物経済貨幣経済信用経済という経済発展段階説を唱えた。さらに経済学と統計学の専門雑誌『経済学・統計学年鑑』"Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik" (1862創刊) を J.コンラートとともに編集するかたわら,スイスやドイツの統計局の設立や運営にも参加した。著作はほかに『現物・貨幣・信用経済』 Natural-,Gelt- und Kreditwirtschaft (64) などがある。

ヒルデブラント
Hildebrandt, Johann Lucas von

[生]1668.11.14. ジェノバ
[没]1745.11.16. ウィーン
オーストリアの建築家。イタリアで生れ,ローマで学んだ。 1695~96年はピエモンで城塞構築家としてサボア公ユジェーヌに仕えたのち,ウィーンで J.フィッシャー・フォン・エルラハの影響を受け,宮廷建築家となった。ルイ 14世様式やイタリアの後期バロックの様式を基盤とした作風で,聖堂,小礼拝堂,別荘,宮殿,住宅などを建築。作品はウィーンのベルベデーレ宮殿 (1721~22) など。

ヒルデブラント
Hildebrand, Dietrich von

[生]1889.10.12. フィレンツェ
[没]1977.1.25. ニューヨーク
ドイツの哲学者彫刻家 A.ヒルデブラントの息子。 1924~33年ミュンヘン,41年以後はアメリカのフォーダムの各大学教授。フッサール,M.シェーラーの影響を受け,現象学,客観的実質的価値倫理学の立場に立つ。主著『キリスト教的倫理学』 Christian Ethics (1952) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒルデブラント」の意味・わかりやすい解説

ヒルデブラント(Bruno Hildebrand)
ひるでぶらんと
Bruno Hildebrand
(1812―1878)

ドイツの経済学者、統計学者、旧歴史学派の代表者の1人。ライプツィヒ大学、ブレスラウ(現ブロツワフ)大学で学び、ブレスラウ大学私講師を経て、1841年マールブルク大学の国家学教授となったが、49~50年のヘッセン会議で進歩的政治思想を主張したため大学を追われ、スイスに亡命し、チューリヒ大学、ベルン大学教授を歴任。61年に帰国してイエナ大学教授となり、65年同大学総長。主著『現在および未来の国民経済学』Die Nationalökonomie der Gegenwart und Zukunft(1848)で、国民経済の歴史性、民族性、倫理性を強調し、のちに歴史学派とよばれるようになったものの創始者の1人となった。古典派経済学と社会主義との双方を批判し、流通手段に着目して現物経済→貨幣経済→信用経済という経済発展段階説を唱えた。また62年J・コンラートJohannes Conrad(1839―1915)とともに『経済学・統計学年鑑』Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistikを創刊し、その編集にあたるとともに、スイスやドイツの統計局の設立や運営にも参加した。

[早坂 忠]


ヒルデブラント(Adolf von Hildebrand)
ひるでぶらんと
Adolf von Hildebrand
(1847―1921)

ドイツの彫刻家。経済学者ブルーノの子としてマールブルクに生まれる。ニュルンベルクおよびミュンヘンで学び、1867年ローマに赴く。同地で画家マレースを知り決定的な影響を受ける。72年再度イタリアに旅行し、フィレンツェに滞在してルネサンスの巨匠について研究し、当時のネオ・バロック的な風潮を退けて新古典主義の作風を確立した。92年ミュンヘンに定住、翌年美学的な著作『造形芸術における形式の問題』を発表。同地に没した。おもな作品に「ブラームス記念像」「クララ・シューマン胸像」「ウィッテルスバハの泉」がある。

[野村太郎]


ヒルデブラント(Johann Lukas von Hildebrandt)
ひるでぶらんと
Johann Lukas von Hildebrandt
(1668―1745)

オーストリアの建築家。ジェノバに生まれ、イタリアの建築家フォンタナについて学んだ。1701年以降は主としてウィーンで、フィッシャー・フォン・エルラハとともにバロック建築の代表者として活躍した。作風は華麗で軽快な装飾性を特色とし、ロココ様式の到来を予感させる。ウィーンで死去。おもな作品に、ウィーンのシェーンブルン宮(1706)、ダウン・キンスキー宮(1713~16)、ベルベデーレ宮(1714~24)、ザルツブルクのミラベル城改築などがある。

[野村太郎]


ヒルデブラント(グレゴリウス(7世))
ひるでぶらんと

グレゴリウス(7世)

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