江戸初期、鎖国政策により帰国を禁ぜられたり追放された日本人、日系混血児らがジャカルタより故国にあてた手紙。日本人の海外進出により南洋各地に移住する日本人が増加したが、江戸幕府は1635年(寛永12)に日本人の海外渡航と帰国を厳禁したので、彼らは中国船やオランダ船に託して故国との交信や取引を行っていたが、これも1640年ごろから禁止された。また、ヨーロッパ人との混血児とその母親も海外に追放された。当時オランダが領有していたジャカルタはバタビアとよばれ、日本ではジャガタラと称したが、同地にもかなりの日本人が居住していた。ジャガタラお春の名は、西川如見(じょけん)が潤色して『長崎夜話草』に載せたためよく知られる。
その後、鎖国体制が整備し、キリシタン宣教師潜入の途も絶たれるにつれ、幕府は1655年(明暦1)ごろからバタビア居住の日本人の故国との交信を緩和したので、彼らは故国の親戚(しんせき)知人らと音信を交わし、金品を送り所用の物品を注文した。今日、長崎県平戸(ひらど)観光資料館には、日系混血児コルネリヤら同地の日系市民が故国にあてた書簡(しょかん)5通がジャガタラ文として伝えられ、当時のオランダ人社会における日系市民の生活の一斑(いっぱん)を伝えている。
[加藤榮一]
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江戸初期,鎖国体制を強化するため,幕府は1636年(寛永13)ポルトガル人と日本人との混血児とその母親をマカオへ,39年にはオランダ人との混血児とその母親をジャガタラ(ジャカルタ)に追放した。これらの人々が故国にあてた通信をいう。はじめ外国人がこれらの手紙やそれに添えた品物を預かって届けることは禁止されていたが,しだいに緩和された。平戸観光資料館には,〈ジャガタラ文〉が2,3点残っている。
執筆者:永積 洋子
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江戸初期,鎖国令により国外へ追放された混血児らが,インドネシアのジャガタラ(バタビア,現,ジャカルタ)から日本へ書き送った手紙。1636年(寛永13)ポルトガル人との混血児とその母がマカオに追放されたのに続き,39年にはオランダ人らとの混血児と家族がバタビアに追放された。彼らは唐船などに手紙や品々を託して故国の親族と音信を行った。西川如見が「長崎夜話草」のなかで混血のジャガタラお春の手紙をジャガタラ文としてとりあげたことから有名になった。この文は如見の創作とされるが,お春が長崎の叔父らにあてた手紙の写しが現存する。
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…江戸中期の対外関係史話。5巻。西川如見(忠英)の著。1720年(享保5)に成る。京都の書店の求めに応じて,外国船の渡来事情,漂流漂着,事件など対外的なトピックスを主に,孝子など長崎の逸話,特産品39種を解説したもの。お春の〈じゃがたら文〉は有名。鎖国前の世代がいなくなったあとの,世人の対外的関心の所在が知られる好資料。岩波文庫,長崎叢書ほか所収。【中村 質】…
※「ジャガタラ文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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