スコータイ朝(読み)スコータイちょう(英語表記)Sukhothai

精選版 日本国語大辞典 「スコータイ朝」の意味・読み・例文・類語

スコータイ‐ちょう‥テウ【スコータイ朝】

  1. ( スコータイはSukhothai ) タイ最初の王朝(一二二〇頃‐一四三八)。クメール軍を破り、華南より南下したタイ族がスコータイ(タイ北西部)を占領してつくったタイ族初の独立国家。宋胡(寸古)録(すんころく)焼という陶器、タイ文字確立、仏教の発展など文化的にも隆盛した。アユタヤに併合されて消滅

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改訂新版 世界大百科事典 「スコータイ朝」の意味・わかりやすい解説

スコータイ朝 (スコータイちょう)
Sukhothai

タイ族最古の王朝。メナム(チャオプラヤー)川支流のヨム川流域の都邑スコータイとシーサッチャナーライを中心に,13世紀から15世紀まで栄えた。中国史料の〈暹(せん)〉がこれに比定されている。もとカンボジアのアンコール朝の支配下でクメール人大守が統治していた。ジャヤバルマン7世死後,同朝の勢力が衰えると,タイ人土侯が反乱してスコータイを占拠し,タイ人の国家を建てた。その時期は1220年ころと推定されている。スコータイの支配域は,はじめ首都の周辺数十kmの範囲を出なかったが,第3代ラーマカムヘン王(在位1279?-1316?)のとき急激に成長し,北はルアンプラバンから南はナコーンシータマラートリゴール)まで,東はメコン川沿岸地方から西は下ビルマペグーに至る広大な地域へと支配圏を拡大した。92年ころから元朝に入貢,この間中国から製陶技術が伝えられ,宋胡録(すんころく)焼の名で日本にも知られ,広く世界各地へ輸出された陶磁器生産の基礎がおかれた。ラーマカムヘンはタイ文字を創始し,その文字を用いて現存する最古のタイ碑文(1292)をつくった。同王のとき,南タイのナコーンシータマラート経由で,スリランカ系の大寺派上座部仏教林住部の伝統がスコータイに伝えられた。スコータイ城西部のサパーン・ヒン寺は,同王が林住部(アランニカ)の大長老のために建立寄進した精舎の遺構である。スコータイは次代のルータイ王(在位1316?-46?)のとき版図の大半を失ったが,奪王グワ・ナムトムを除いて王位についた子のリタイ(在位1347-74?)は,祖父の築いたスコータイの威勢を再興した。リタイは〈大正法王(マハータンマラーチャー)〉と呼ばれる篤信の仏教徒で,王子時代にトライプームという仏教宇宙論を著した。1350年南方にアユタヤが勃興すると,スコータイはしだいにその勢力を奪われ,1438年ついにアユタヤ朝の一部に併合され独立を失った。

 しかしアユタヤ朝の一地方国主となったのちも,スコータイ王家の家系は断絶していない。1569年ビルマ軍がアユタヤを滅ぼしたとき,ビルマ王はスコータイ王家の血を引くマハータンマラーチャーを,属国としたアユタヤの王位につけた。その子ナレースエンはビルマの支配に抗して立ち上がり,タイの独立を回復した。かくしてスコータイ王朝がアユタヤに再現されることとなった。
執筆者:

この王朝の美術は仏教美術であり,その仏教美術,さらには仏教建築は,以降のタイ美術・建築の模範となる基礎として確立された。したがって,この王朝の美術は一般に,タイ国美術史における古典期に相当するといわれる。例えば,スコータイ様式と一般に呼ばれる仏像は,頭上に火炎状のものがとび出し,顔は全体に卵形で,眉毛が弓状をなし,伏し目で,鼻がオウムの口ばしのように,そして唇がうすく微笑をうかべている。このような特徴の仏像が多くつくられたが,この様式の仏像は,当時の諸王がスリランカより上座部仏教を受容したことにより,そのスリランカ仏を模倣したものであった。最も注目されるのは,丸彫で表された,歩いた姿の仏像(遊行仏)の出現である。建築も,〈プラ・チェディー〉と称する仏塔に見られるように,まさしくスリランカの仏塔の模倣であった。またスリランカより伝えられた仏足石がいくつか残り,王宮のバラモン僧たちによるヒンドゥー教の神像(青銅製)も残っている。その他,しっくい製の浮彫や,線刻画も目をひくが,このころつくられた陶器は,その後,日本にも伝えられ,宋胡録焼として有名である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「スコータイ朝」の意味・わかりやすい解説

スコータイ朝【スコータイちょう】

タイ族最古の王朝で,13世紀から15世紀に及ぶ。メナム(チャオプラヤー)川の支流のヨム川流域のスコータイとその近辺が中心。中国史料の〈暹(せん)〉に比定される。カンボジアの圧迫を退けて1220年ころ建国。第3代ラーマカムヘン(在位1279年?―1316年?)の治世が最盛期。南ビルマ,マレー半島,カンボジアにまで進出する一方,元朝その他諸国と接触,その諸文化を受け入れ,仏教を広め,タイ文字を創案した。王の没後は振るわず,南方に興ったアユタヤ朝に1438年臣従した。
→関連項目スコータイ美術タイタイ[人]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スコータイ朝」の意味・わかりやすい解説

スコータイ朝
すこーたいちょう
Sukhōthai

カンボジアのジャヤバルマン7世に服属していたタイ人土侯が、アンコール帝国の北西辺境の町スコータイを攻略して創設したタイ人最古の王朝(1220ころ~1438)。中国史料の暹(せん)がこれにあたるとされている。初代の王はシーイントラーティット。3代目のラーマカムヘン王は現存する最古のタイ語碑文(1292)をつくった。同王のときスコータイは強大となり、ラオスのルアンプラバン、ビルマ(現ミャンマー)のペグー(現バゴー)、マレー半島部のナコン・シータマラート(リゴール)にまでその勢力を伸ばす。スリランカ系の上座部(小乗)仏教を受容し、盛んに寺院の建築、仏像の製作を行った。スコータイとその周辺には、中国の技術の影響を受けて製陶業がおこった。その製品は各地に大量に輸出され、日本にも「宋胡録(すんころく)」の名で知られている。14世紀中葉、南方にアユタヤ朝が興るとしだいに勢力が衰え、1438年アユタヤに併合され独立を失った。

[石井米雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スコータイ朝」の意味・わかりやすい解説

スコータイ朝
スコータイちょう
Sukhothai

タイ人による最初のタイ王朝(1238~1378)。南中国から南下移動したタイ族が 13世紀中頃,中部タイのスコータイを都として王朝を創始した。第3代ラーマカムヘーン王(在位 1279~98)の碑文(1292)によると,領土をビルマのマルタバン,マレー半島,クメールへ拡張し,クメールの政治,司法制度を受容,クメール文字を改良したシャム文字(タイ文字)を創案するとともにモン族の上座部仏教を取り入れた。また中国の陶人を招きスワンカローク焼(宋胡録)を創出した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スコータイ朝」の解説

スコータイ朝(スコータイちょう)
Sukhothai

タイ北部のスコータイとシーサッチャナーライを中心にして,13世紀半ばにクメール人の支配から自立したタイ人が興した王朝。第3代のラームカムヘーン王時代が最盛期で範域を広げたが,以後弱体化し,15世紀半ばにアユタヤ朝に吸収されて王統が絶えた。ラームカムヘーンをはじめ歴代の王たちは上座仏教に篤く帰依して,仏像や寺院を多数建立した。14世紀の第6代リタイ王は仏教的宇宙観の書『三界経』(さんがいきょう)の著者とされる。

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旺文社世界史事典 三訂版 「スコータイ朝」の解説

スコータイ朝
スコータイちょう
Suk'ot'ai

1257〜1350
13世紀にメナム川流域に建設されたタイ族の王朝
中国史上の暹 (せん) 。華南から南下したタイ族がカンボジアを破ってスコータイに建国。第3代ラーマ=カムヘン王(在位1277〜1317)は中国(元朝)・インド・クメールなどの文物を取り入れ,タイ文字を制定し,上座部仏教を受容,最盛時を迎えた。1350年にアユタヤ朝が成立すると,その勢力を奪われ,1438年に併合されて独立を失った。

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世界大百科事典(旧版)内のスコータイ朝の言及

【タイ】より

…タイ族の〈ムアン〉の成立は13世紀よりかなり以前であったと考えられるが,初期の〈ムアン〉は多く山間小盆地などに立地し,互いに孤立して上位の政治的統合が形成されにくい状況にあったため,文献には現れなかったものと思われる。 現在のタイの核心域をなすメナム川流域は,11世紀以来アンコール朝の支配下にあったが,13世紀の前半にいたり,二つのタイ族〈ムアン〉連合軍が,クメール族太守支配下のスコータイを攻略し,ここにタイ族最初の国家スコータイ朝を建設した。スコータイの版図は,第3代の王ラーマカムヘン(在位1275ころ‐99ころか1317ころ)のとき最大規模に達した。…

※「スコータイ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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