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死の舞踏 しのぶとうDödsdansen

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

死の舞踏
しのぶとう
Dödsdansen

スウェーデンの劇作家 A.ストリンドベリの2部から成る戯曲。 1901年刊,05年初演。人を踏みつけにすることをなんとも思わない砲兵大尉エドガールと妻アリスは結婚 25年の倦怠のうちにあり,そこに現れた旧友クルトとの間に激しい愛憎のドラマを展開する。第2部では大尉の娘とクルトの息子が結ばれてハッピーエンドに終る。

死の舞踏
しのぶとう
Danse macabre

さまざまな階層の,さまざまな年齢の人々が,死者骸骨とともに輪になって踊るもので,「死は万人を襲う」という意味を寓意的に表現したもの。中世後期以来,しばしば扱われる芸術のテーマであるが,造形的表現として知られる最も古い例は,1424年頃のパリのイノサン聖堂の墓室壁画 (1699破壊) である。これは,85年に出版されたギュイヨ・マルシャンの木版画によって,ヨーロッパ中に広まった。 (1) 生者と死者が手を取って踊るもの。 (2) 舞踏のモチーフを欠いていて,死者が骸骨に代ったもの。以上の2つのタイプに大別される。後者を代表するものとしては,1538年に出版された,子のハンス・ホルバインの木版画が著名。

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デジタル大辞泉の解説

しのぶとう〔シのブタフ〕【死の舞踏】

《原題、〈ドイツ〉Totentanzリストのピアノと管弦楽のための作品。1849年作曲。1853年、1859年に改訂。イタリアのピサにある納骨堂カンポサントで目にした「死の勝利」の壁画に着想を得て作曲された。

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百科事典マイペディアの解説

死の舞踏【しのぶとう】

中世末期の終末観を表現する芸術的モティーフの一つ。骸骨で表現された〈死者〉と生者が手をとり合って踊る様子を描くもので,14世紀ごろから美術,音楽の題材に扱われている。

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デジタル大辞泉プラスの解説

死の舞踏

フランスの作曲家サン・サーンスの交響詩(1874)。原題《Danse macabre》。フランス象徴派の詩人アンリ・カザリスの作品に着想を得て作曲された。

死の舞踏

ハンガリー生まれの作曲家フランツ・リストのピアノと管弦楽のための作品(1838-49, 53, 59)。原題《Totentanz》。イタリアで見た「死の勝利」を描いた中世のフレスコ画に着想を得たとされ、グレゴリオ聖歌の旋律を用いている。

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世界大百科事典 第2版の解説

しのぶとう【死の舞踏 dance of death】

死は古くからしばしば骸骨の姿で表象された。そして疫病に襲われると,人びとの間では死の恐怖から逃れるために集団舞踏の現象が起こることもあった。とくに14世紀末ヨーロッパのペスト(黒死病)被災地では,人びとは群れをなし,ときには全村あげて,半狂乱になって踊り狂ったという。15世紀になると,ペストを退散させるお祓の行事にかたちを変えていった。たとえば1433年のフィレンツェでは車の上に大鎌を持った〈死〉が立ち,まっ黒な衣装に骸骨を白く描いた〈死者〉が墓からあらわれ,〈苦しみ,嘆き,悔いよ〉と歌い,車の前後の従者はしゃれこうべを描いた黒い旗と十字架をかざし,〈主よ,憐れみたまえ〉と唱和しながら練り歩いたという。

しのぶとう【死の舞踏 Dödsdansen】

ストリンドベリの戯曲。2部7幕。1901年作。互いに憎み合いながら25年を過ごしてきた砲兵大尉エドガールとその妻アリセを中心に,第1部は灰色の塔の中,第2部はうって変わって明るい白色・金色の広間を舞台に演ぜられる。〈亡き人の上に平和を〉の一句で幕を閉じるこの戯曲は,〈地獄時代〉を経た後のストリンドベリの忍従,宗教的諦念への新しい境地,象徴的手法を示すものとして注目される。【田中 三千夫】

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大辞林 第三版の解説

しのぶとう【死の舞踏】

骸骨で表された死者が、生者の手を取って死の輪舞に引き込む絵画のモチーフ。中世末期の終末観を背景として起こったもので、一四世紀中頃のペストの大流行を機に広がった集団的乱舞に由来するという。

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世界大百科事典内の死の舞踏の言及

【オーベルニュ】より

…しかし,この大聖堂はフランスでのマリア信仰の中心地として多くの信者を集め,また,中世における指折りの巡礼地であったスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに至る重要な道筋のひとつとして,巡礼が列をなしたという。なお,オーベルニュ地方東端のラ・シェーズ・ディウ修道院付属教会には,内陣裏手に〈死の舞踏〉の壁画があり,中世末の時代精神をみごとに表現した作品として名高い。
[オーベルニュ人気質]
 山里に生きるオーベルニュの人々は,しんぼう強い剛毅の人として知られていた。…

【骸骨】より

…死の擬人化または死神はギリシアのタナトス,《ヨハネの黙示録》の蒼白い馬に乗って黄泉(よみ)を従える〈死〉,古代ノルマンのイムル,インドの死者の神ヤマなどあるが,いずれも骸骨の形をとっていない。ペストその他の流行病がヨーロッパを席巻した13,14世紀ごろには〈死を思え(メメント・モリ)〉の考えが盛んになり,〈3人の死者と3人の生者〉〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉のテーマが現れて,これを造形化する際に骸骨を使うことが頻繁となった。ただし,パリのイノサン墓地回廊の壁画〈死の舞踏〉(1424)をG.マルシャンが写して木版画集とした絵は,骸骨が人間と対になっていてその人の死後の姿を示している。…

【死】より

…孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ――〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。…

【髑髏】より

…一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。当時,〈死を想え(メメント・モリ)〉の思想と〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉の絵とが人々をとらえ,パリのイノサン墓地では,回廊の納骨棚にさらされた多数のどくろやその他の骨が人々に死が来るのは必定であること,したがっていたずらに生の歓びをむさぼることの空しいことを説いていた(ホイジンガ《中世の秋》)。デューラー,ホルバイン兄弟らが好んでどくろや骸骨を描いたのは15世紀末以降のことである。…

※「死の舞踏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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