死は古くからしばしば骸骨の姿で表象された。そして疫病に襲われると,人びとの間では死の恐怖から逃れるために集団舞踏の現象が起こることもあった。とくに14世紀末ヨーロッパのペスト(黒死病)被災地では,人びとは群れをなし,ときには全村あげて,半狂乱になって踊り狂ったという。15世紀になると,ペストを退散させるお祓の行事にかたちを変えていった。たとえば1433年のフィレンツェでは車の上に大鎌を持った〈死〉が立ち,まっ黒な衣装に骸骨を白く描いた〈死者〉が墓からあらわれ,〈苦しみ,嘆き,悔いよ〉と歌い,車の前後の従者はしゃれこうべを描いた黒い旗と十字架をかざし,〈主よ,憐れみたまえ〉と唱和しながら練り歩いたという。また,男女のペアが交互に地上に倒れ,その〈死〉を悼み笑う〈ダンス・マカブルdanse macabre〉という娯楽的な踊りが流行した。
やがて〈死の舞踏〉は,〈メメント・モリmemento mori(死を想え)〉を基調とする中世末期の終末観を表現する主要な芸術的モティーフとなる。生者と骸骨で表された〈死者〉とが手をとり合っている図像が,聖堂のフレスコやステンド・グラスを飾り,また都市の広場に建てられた〈ペスト塔〉にも刻まれた。ドイツ・ルネサンスの画家デューラーやホルバインがこのモティーフで名作をのこした。一方,死の恐怖を表した当時の旋律は,後世のリストの《死の舞踏》などの名曲にそのなごりをとどめている。
→骸骨 →死
執筆者:立川 昭二
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スウェーデンの作家ストリンドベリの戯曲。2部7幕。1901年刊。第1部は灰色の塔の中。世間ではこの塔のある島を「小さな地獄」とよんでいる。要塞(ようさい)砲兵大尉エドガールは妻の元女優アリセ(ストリンドベリの最初の妻シリ・フォン・エッセンがモデルといわれる)と憎しみ合い、別れる機会をうかがいながら25年を過ごしている。我欲のかたまりで、冷血漢のエドガールは、訪ねてきた検疫所長クルトに怪しげなソーダ会社の株を押し付けたり、彼の息子アランを思いのままに操りながら、2人を物心両面でさいなむ。第2部はうって変わって明るい白色、金色の広間。アランとエドガールの娘ユーディットのあどけない恋の場面もある。現世的な物欲の面では満ち足りたかにみえるエドガールは心臓発作で倒れ、聖書の一句をつぶやきながら死ぬ。アリセの「亡き人の上に平安を」のことばで幕を閉じる。ストリンドベリの忍従、宗教的諦念(ていねん)への新しい境地、象徴的手法を示す戯曲の一つとして注目される。
[田中三千夫]
『山本有三訳『死の舞踏』(創元文庫)』
キリスト教世界における中世末期の終末観「死を思え」memento moriの表現形式の一つ。起源については民俗伝承説など種々あるが、フランシスコ修道会の宗教運動の一環としてなされた「死についての説教」と、それに関連して行われた宗教劇から発展したものとされ、14世紀なかばからのペスト大流行を機に種々の形で各地に広まった。1473年にはフィレンツェで画家ピエロ・ディ・コシモ創案の、大鎌(おおかま)を手にした死を中心とする謝肉祭の行列が行われた記録があり、15世紀の東欧では、男女のペアが交互に死と哀悼を演ずる「死の踊り」が演じられたという。造形美術にもこのころから取り入れられ、壁画などに描かれたが、現存するものは少なく、ハンス・ホルバイン(子)の41枚からなる同名木版画集(1538、リヨン刊)が有名。音楽作品ではリストのピアノと管弦楽用の同題曲があり、これはグレゴリオ聖歌『怒りの日』の旋律のパラフレーズで死の恐怖を伝えている。
[寺崎裕則]
『木間瀬精三著『死の舞踏』(中公新書)』
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[トーキー以後]
光学録音の発明とともに音と映像がいっしょにフィルムに密着することによって,音楽と映画の結びつきはより親密に,より実験的,前衛的になる。E.マイゼル(1874‐1930)がW.ルットマンのアバンギャルド映画《世界のメロディ》(1929)で試みた音と映像の対位法や,ディズニーが短編アニメーション《骸骨の踊り》(1929)で,サン・サーンスの交響詩《死の舞踏》の旋律をシンクロナイズさせた試みなどを経て,30年代には,M.ジョーベール(1900‐40。《巴里祭》《新学期操行ゼロ》《舞踏会の手帖》《北ホテル》など),G.オーリック(1899‐1983。…
…長さ33cmほどの柄の先に小さな硬質ゴムかプラスチック製の球をつけた桴(ばち)で奏する。管弦楽曲では骸骨の踊りを描いたサン・サーンスの交響詩《死の舞踏》(1874)が有名である。【有賀 誠門】。…
…しかし,この大聖堂はフランスでのマリア信仰の中心地として多くの信者を集め,また,中世における指折りの巡礼地であったスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに至る重要な道筋のひとつとして,巡礼が列をなしたという。なお,オーベルニュ地方東端のラ・シェーズ・ディウ修道院付属教会には,内陣裏手に〈死の舞踏〉の壁画があり,中世末の時代精神をみごとに表現した作品として名高い。
[オーベルニュ人気質]
山里に生きるオーベルニュの人々は,しんぼう強い剛毅の人として知られていた。…
…死の擬人化または死神はギリシアのタナトス,《ヨハネの黙示録》の蒼白い馬に乗って黄泉(よみ)を従える〈死〉,古代ノルマンのイムル,インドの死者の神ヤマなどあるが,いずれも骸骨の形をとっていない。ペストその他の流行病がヨーロッパを席巻した13,14世紀ごろには〈死を思え(メメント・モリ)〉の考えが盛んになり,〈3人の死者と3人の生者〉〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉のテーマが現れて,これを造形化する際に骸骨を使うことが頻繁となった。ただし,パリのイノサン墓地回廊の壁画〈死の舞踏〉(1424)をG.マルシャンが写して木版画集とした絵は,骸骨が人間と対になっていてその人の死後の姿を示している。…
…孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ――〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。…
…一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。当時,〈死を想え(メメント・モリ)〉の思想と〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉の絵とが人々をとらえ,パリのイノサン墓地では,回廊の納骨棚にさらされた多数のどくろやその他の骨が人々に死が来るのは必定であること,したがっていたずらに生の歓びをむさぼることの空しいことを説いていた(ホイジンガ《中世の秋》)。デューラー,ホルバイン兄弟らが好んでどくろや骸骨を描いたのは15世紀末以降のことである。…
※「死の舞踏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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