南蛮文化(読み)ナンバンブンカ

デジタル大辞泉 「南蛮文化」の意味・読み・例文・類語

なんばん‐ぶんか〔‐ブンクワ〕【南蛮文化】

室町末期から江戸初期にかけて、ポルトガル・スペインなどの宣教師貿易商により伝えられた西洋文化。医学・天文学や芸術のほか、鉄砲製造などの諸技術が伝えられ、また、キリシタン版が刊行された。

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精選版 日本国語大辞典 「南蛮文化」の意味・読み・例文・類語

なんばん‐ぶんか‥ブンクヮ【南蛮文化】

  1. 〘 名詞 〙 安土桃山時代から江戸初期にかけて、ポルトガル・スペイン・イタリアキリシタン宣教師・貿易商によって伝えられた西洋文化。キリシタン版の刊行、医学・天文・暦学・芸術などの移植に努めた。また鉄砲・造船・航海・測量・鉱山採掘などの諸技術が伝わり、生活・風俗への影響が大きかった。

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改訂新版 世界大百科事典 「南蛮文化」の意味・わかりやすい解説

南蛮文化 (なんばんぶんか)

キリシタン文化ともいい,16,17世紀にキリスト教の伝来とともに日本に導入され,あるいは影響を与えた文化であり,またこの影響を受けて興った文化をも指す。その最盛期は1580-1614年(天正8-慶長19)までであるが,その社会的・文化的影響は著しいものがあった。キリスト教そのものが南蛮文化すなわちヨーロッパ文化であり,このキリスト教の思想は動乱の社会にあって自我意識にめざめつつあった畿内の都市市民層や西南九州の有力農民層に新しい価値観を吹き込み,新しい人間理解を促した。さらに実証精神に裏打ちされた科学知識の流入は日本人の世界的視野の拡大を助けた。

イエズス会宣教師はキリシタンに対し一夫一婦制の遵守を励行し堕胎,間引きを禁じる一方で,捨子のための育児院,孤児院養老院等を設けて救貧活動に従事し,伝染病患者や癩病者救済のために病院を設けた。のちこれらの活動はキリシタンのミゼリコルジヤ(慈悲)の組に受けつがれたが,これはまさにキリスト教思想の根幹である隣人愛の実践にほかならなかった。病院は府内,長崎,京都,伏見,大坂,堺,和歌山,江戸の各地に設立された。その多くは癩病院で救癩活動はフランシスコ会も参加して各地のミゼリコルジヤの組が推進した。アルメイダによって始められた外科医学は南蛮医学として興隆し,多くの外科医を輩出したが,禁教によりしだいに衰え,のちオランダ外科と称せられて伝存された。

社会事業活動とともに特筆されるのはイエズス会の教育活動で,同会は幼児教育を重視し,1561年(永禄4)以降83年(天正11)までに200余りの教会付属の学校を設け,宗教教育を助けた。同会は教育事業を布教の手段としてではなく教会の本質的任務とみなし,79年来日した巡察師バリニャーノは日本人司祭養成の必要を痛感し,まずキリシタン子弟の教育のため有馬と安土にセミナリヨを,さらに高等教育機関として豊後府内にコレジヨを,また修道者のためにノビシアド(修練院)を臼杵に設けた。セミナリヨは6年課程で3段階のカリキュラムからなり,ラテン語,自然科学,日本文学,音楽,絵画および印刷術が教えられた。コレジヨでは司祭養成のための神学と哲学が教授され,のち準管区長ゴメス編纂の要綱Compendiumが講義された。これは天球論,アリストテレスの霊魂論およびカトリック信仰体系の概説からなり,ヨーロッパの科学思想が紹介された。天球論はのち小林謙貞により《二儀略説》として鎖国以後も長崎を中心に伝えられた。ほかに仏教各派に論駁を加えた仏法も講義された。92年(文禄1)には天草の志岐に画学舎が設けられイタリア人ニコラオが指導に当たった。

天正遣欧使節将来の活字印刷機は,教育活動用の教科書作成,文書による布教活動促進,ヨーロッパ人宣教師の語学(日本語,ラテン語等)学習用の辞書・辞典作成に大きな原動力となった。印刷機は肥前加津佐に置かれ,91年ローマ字本《サントスの御作業のうち抜書》が初めて印刷され,ひらがなと漢字の木活字による《どちりなきりしたん》も同年作られた。1600年(慶長5)長崎の後藤登明宗印はイエズス会から国字本印刷を委託され,京都の原田アントニオも国字本印刷に携わった。これらはキリシタン版と称され,31点73本が現存する。教理書,辞書(《日葡辞書》),語学書(《拉丁文典》《日本大文典》),文学書(《平家物語》),教訓書(《ぎや・ど・ぺかどる》)等からなる。05年日本司教セルケイラ編纂の典礼書《サカラメンタ提要》は二色刷の音譜を載せ,高度な印刷技術を有していた。

教会音楽として入ったヨーロッパ音楽は,1550年代にグレゴリオ聖歌がクリスマス等のミサで歌われた。セミナリヨでは音楽を重視しビオラ,ハープ等の楽器が合奏された。上記《サカラメンタ提要》にはグレゴリオ聖歌19曲が収められ,うち13曲が葬儀用で宗教的効果を十分に発揮した。グレゴリオ聖歌はオラショ(祈り)として現在も生月島の隠れキリシタンに歌いつがれている。

イエズス会はキリシタンの求めに応じるため画学舎を設け,日本人学生に聖画像やロザリオ,メダイ等の工芸品を作らせた。書物の挿図や銅版画が手本であったが,油絵やテンペラ絵の技法は未熟で遠近法,陰影法も幼稚であった。しかし狩野派画家は洋風画に近づき,《マリア十五玄義図》等を制作した。時代を反映して騎士像,戦闘図,都市図等の風俗画も多く描かれた。桃山時代末期以降寛永年間(1624-44)に描かれた南蛮屛風は武将や大商人の求めでおもに狩野派画家が制作し,長崎を中心として南蛮貿易の様子や南蛮人の風俗を主題とした。現存の南蛮屛風60点中には世界地図屛風十数点があり,近世日本人の未知の世界に対する憧憬が南蛮物崇拝をあおった。文箱,硯箱,茶碗,鎧等の工芸品に十字や南蛮人が描かれ,武将はローマ字入り印章を使う等異国趣味が流行した。
南蛮美術
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南蛮文化」の意味・わかりやすい解説

南蛮文化
なんばんぶんか

16~17世紀に南ヨーロッパのカトリック教国民が日本にきたことによって普及し、また日本人がその影響を受けた外来文化。キリシタン文化の名でよぶ向きもあるが、これは、南蛮文化のうちキリスト教関係のものについての名称としては適切であっても、キリシタン宗門と直接関係のない外来の文物、たとえばカステラ、ジバン(襦袢(じゅばん))、タバコなども多く、またキリシタン文化は江戸時代に厳禁された一方、宗教と無関係の南蛮文化は好んで受容されたから、両者の性格は相当異なっているといえよう。

 芸術の分野では「南蛮屏風(びょうぶ)」をあげうる。狭義には「南蛮人渡来図屏風」をさし、16世紀末~17世紀初頭の長崎の港町が主題で、左半双には外国の情景を描いたものもある。この種の屏風では、南蛮船、南蛮の商人、キリシタンの教会と宣教師たちが欠かせない要素となっている。広義には、世界・日本地図屏風、西洋風俗図屏風、世界都市図屏風などをもさしている。都市図屏風などが、ヨーロッパから日本にもたらされた画集などに基づいていることは明らかである。屏風以外にも、ザビエル肖像画、聖母マリア像など、キリシタンの宗教画も多く、そのほか漆器、陶器、金工など、宗教色のない美術工芸の、いわゆる「南蛮もの」が数々みいだされる。

 風習としては、テンプラ、カステラ、ボーロ(ボウル)、パン、金平糖(こんぺいとう)のような食品、メリヤスラシャ(羅紗)、サラサ(更紗)、ジバン、ビロードのような衣服関係のもの、そのほか、タバコ、カルタ、ビードロなど用語から南蛮渡来のものと推定されるものがあるが、ポルトガル語に同じ語句があるからという理由だけでは不十分で、江戸初期以前から日本で普及していたことが確認されなければ、南蛮の文物とはいえない。既述のもののなかにもその意味では断定できないものもある。肉食の風習は南蛮に由来するが、普及せず、西洋音楽、演劇もまたキリシタン宗門の禁止とともに消滅した。南蛮文化のうち特筆に値するのはイエズス会経営の学校であり、キリシタン版の刊行もそこで行われた。しかしそれらもキリシタンの禁圧によって普及発達しなかった。南蛮医学、天文学、銃砲などは、オランダ人との交渉が継続したので、蘭学(らんがく)へとつながって、日本人がそれぞれの分野で受容し発達せしめた。以上のほか、南蛮人宣教師が戦乱の時代に難民を救済したり、キリスト教的道義を広く説くなど日本社会に貢献したことも看過すべきではない。

[松田毅一]

『海老沢有道著『キリシタン文化概説』(1948・青年評論社)』『古賀十二郎編『長崎市史 風俗編』再版(1967・清文堂出版)』『海老沢有道著『南蛮学統の研究』増補版(1978・創文社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南蛮文化」の解説

南蛮文化
なんばんぶんか

16~17世紀にポルトガル,スペインなど南欧カトリック教国民との交流により,日本に伝来した異国風文化。宗教・思想・言語から,天文・地理・医療・機械など自然科学や技術,美術工芸などの芸術,服飾・飲食・行事などの風俗習慣に及ぶ。ポルトガルとイエズス会が大きな役割をはたし,カトリックの典礼や儀式とともに日本社会に普及した。ただし,これらの文物は江戸幕府の禁教政策のため,ごく少数の秘匿された宗教画や手工芸品,キリシタン版の典籍などが伝存するにすぎない。このほか貿易や日常的交流により受容された世俗文化として,銃砲などの技術や服装・料理・外来語などの生活文化に多くの要素が認められる。このなかには伝来の過程でアラブやアジア世界の土着文化と混淆したもの,日本社会で変容したものも少なくない。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南蛮文化」の解説

南蛮文化
なんばんぶんか

16世紀中期以後の約100年間に,キリシタン宣教師・貿易商によって伝えられた西洋文化
南ヨーロッパ(ポルトガル・スペイン・イタリア)の宗教文化。精神文化ではキリスト教が伝来し,日本人は未知の唯一神信仰や一夫一婦制の道徳に接した。イエズス会はキリシタン版の刊行,医学・天文・暦学・芸術などの移植につとめた。物質文化では鉄砲をはじめ造船・航海・測量・鉱山の諸技術が伝来し,生活・風俗への影響も大きかった。

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世界大百科事典(旧版)内の南蛮文化の言及

【安土桃山時代】より

…来日した宣教師や商人,さらには日本人の海外渡航者によって天体観測機(太陽,星,赤道などからの距離を測る),平面球形図,海図,磁石などがもたらされ,緯度の測定も行われた。タバコ(煙草),パン(麵麭),メリヤス(莫大小),シャボン(石鹼)などポルトガル語を語源とするものが今日まで多く残っていることからも,南蛮文化との深いつながりを感じさせる。鉄砲が伝来してまもなく,伝統的な刀鍛冶の技術に支えられて国産化し,堺,根来,近江国友などで大量に作られ,全国に普及していった。…

※「南蛮文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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