日本大百科全書(ニッポニカ) 「セルトー」の意味・わかりやすい解説
セルトー
せるとー
Michel de Certeau
(1925―1986)
フランスの歴史家。サボア県シャンベリ生まれ。パリ、グルノーブル、リヨンの各大学で文学、哲学、宗教を学ぶ。古典文学と哲学の学位を修め、1947年にパリ大学高等学院の修了資格を得た。他方、20歳のときに滞在先のイギリス、オックスフォードで「原初の風景」を見たことから恩寵を深く信じるようになり、旧約聖書・新約聖書をはじめとするキリスト教文献の独自の研究を進める。50年イエズス会に入会、イエズス会コレージュの哲学教授を経て、56年には司祭に任じられ、以後終生その地位にあった。
学問上の専門は宗教史だが、「西欧においては、集団(または個人)は自分が排除するものをよりどころとし、支配されたものから抽きだす同意のなかに自分の保証を見いだす」という独特の歴史観をもっていたため、その関心は教会史や教義よりも民衆の宗教的心性の方に向かい、ジャン・ジョゼフ・シュランJean-Joseph Surin神父(1600―65)に代表されるイエズス会初期の神秘思想を集中的に研究した。また64年に知り合ったジャック・ラカンと生涯を通じて親しく交流、当時一大勢力を誇ったパリ・フロイト派から精神分析の成果を貪欲に取り込んだ研究を行ったり、68年の五月革命には左派の立場から大学改革計画にも積極的に参画するなど、歴史家としては多くの点で異色の存在であった。また後年は、「日常的なものには素晴らしい巧み(アール)がちりばめられていて、言語と歴史のゆるいリズムにそいながら、目を奪うようなキラキラとした泡に覆われており、作家や芸術家の巧みに勝るとも劣らない」と書き綴るなど、本来の関心である民衆の宗教的心性をさらに敷衍(ふえん)して、『日常的実践のポイエティーク』L'invention du quotidien 1; Art de faireや『文化の政治学』La culture au pluriel(ともに1980)などの著作において、民衆史、社会文化論を展開するようになる。この視点には、ミシェル・フーコーの『知の考古学』L'archéologie du savoir(1969)の多大な影響が指摘される一方、90年代以降のカルチュラル・スタディーズを先取りするものとしても評価されている。
パリ第七、第八大学教授、ケンブリッジ大学特別研究員などを歴任。77年にはカリフォルニア大学サン・ディエゴ校教授、84年にはパリ大学高等研究院社会科学研究所の教授に任じられた。その他の著書には『パロールの奪取』La prise de parole; pour une nouvelle culture(1968)、『歴史のエクリチュール』L'écriture de l'histoire(1975)などがある。日本でも、山口昌男の紹介などによって一部の読者の間でははやくからその名が知られていたが、主著の翻訳出版は著者の死後のことであった。
[暮沢剛巳]
『山田登世子訳『日常的実践のポイエティーク』(1987・国文社)』▽『佐藤和生訳『歴史のエクリチュール』(1996・法政大学出版局)』▽『佐藤和生訳『パロールの奪取――新しい文化のために』(1998・法政大学出版局)』▽『山田登世子訳『文化の政治学』(1999・岩波書店)』