ローマの弁論家,政治家,哲学者。ローマの東約100kmの町アルピヌムの騎士身分の家に生まれた。ローマで修辞,哲学の教育を受けたキケロは,前81年の《クインクティウス弁護》を皮切りに弁論家としての道を歩み始め,翌年には殺人事件を扱った《ロスキウス弁護》における演説によって早くも名声を得た。その後,前79年からアテナイ,ロドス島に遊学してストア学派の哲学者ポセイドニオスらに師事し,弁論術,哲学を修めた。ローマに戻った後は,法廷弁論のかたわら政治の道を歩み始め,前75年にクアエストル(財務官),前66年にはプラエトル(法務官)に選出された。このころキケロは,ローマとポントスのミトリダテス6世の戦争をめぐってポンペイウスを支持する演説を行い,以後ポンペイウスと政治的親交を維持するようになる。前64年キケロはガイウス・アントニウスとともに翌年のコンスル(執政官)に選ばれた。騎士身分の生れで政治的背景を持たぬ〈新人〉であった彼がコンスルに選ばれたのは,カティリナの企てを恐れたオプティマテス(貴族派)の後押しがあったからである。キケロはその期待にこたえて,元老院で《カティリナ弾劾》の演説を行い,陰謀を未然に鎮圧した。カティリナはローマを逃れたが,まもなく殺された。
この事件のころが,キケロが政治家として最も活躍した時期であった。しかし,彼はカティリナ一派の領袖たちを正式な手続を踏まずに処刑し,後に自分が訴追される原因を作った。前58年,カエサルの支持を得てトリブヌス・プレビス(護民官)に選ばれたクロディウスは,ローマ市民を裁判なしに処刑したとがでキケロを告発し,キケロは裁判の決着を待たずにマケドニアへ逃れた。前57年にポンペイウスの援助によりローマへ戻りはしたものの,前56年にカエサル,ポンペイウス,クラッススの三頭政治が復活すると,キケロのカエサル,ポンペイウス分断工作は挫折し,以後,前44年にカエサル暗殺事件が起きるまで,彼は崩壊寸前のローマ共和政の表舞台から遠ざかる。この間にキケロの哲学,修辞学に関する著作が次々と生み出された。前44年になるとキケロは政治の世界に再び登場し,オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)を支持して,アントニウスを攻撃する演説《フィリッピカエ》を次々と行った。しかし,前43年オクタウィアヌスとアントニウスの妥協が成立し,レピドゥスを加えた三頭政治が始まると,キケロはオクタウィアヌスの支持を得られず,危機に立たされた。キケロはローマを逃れたが,前43年12月7日アントニウスの送り出した兵士たちによって殺された。
キケロは多数の著作を残しており,キケロに関する知識は,大部分彼の著作に基づいている。これらの作品は古典期ラテン散文の一つの完成した姿を示している。重要な著作は,弁論,修辞論,哲学,書簡集に大きく分けられる。弁論は,キケロが生涯を通じて行った法廷弁論,政治演説のうち約58編が現存し,約48編が失われたと考えられている。重要な弁論は,前記のほかに,不当利得返還訴訟を扱った《ウェレス弾劾》などがある。修辞論の中で重要な作品には《弁論家について》《ブルトゥス》《弁論家》などがあり,弁論家の受けるべき教育,弁論のさまざまなスタイルが論じられている。キケロは弁論家の一つの理想の姿を前4世紀にアテナイで活躍したデモステネスの中に見ており,アントニウスを攻撃した演説《フィリッピカエ》は,その題名をデモステネスの演説から取っている。キケロの修辞論は,アリストテレスの《修辞学》,クインティリアヌスの《弁論術教程》と並んで,中世・近世を通じての修辞学に大きな影響力を持ち続け現代に及んでいる。キケロの哲学的著作は《国家》《法律》の政治論,《トゥスクルム叢談》《義務について》《大カトー・老年について》などの倫理論,《神々の本性について》《卜占について》などの神学論と多岐の分野にわたっている。哲学史の中でキケロの果たした役割は,彼自身の思想にはなく,彼の興味を引いたストア学派やエピクロス学派の哲学者たちの学説を紹介してこれを中世に伝えたことにあった。キケロ自身はアカデメイア学派を称していたけれども,実際には彼の思想はさまざまな哲学者たちの学説の折衷的産物であった。法廷弁論,政治演説という実践の世界こそが彼の本領であり,哲学研究は政治の世界から遠ざけられていた時期になされた。しかし,ギリシアの学術を,とくにラテン語にない用語や表現の翻訳を通して後世に伝えた功績は絶大といえよう。書簡は約900通現存しているが,公刊を予期して練り上げられたもの,取り急いで書かれたものが混在している。
執筆者:平田 真
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古代ローマの政治家、思想家。雄弁家としても有名。ローマ市南東方のアルピヌムの貴族(ローマの騎士身分)の家に生まれる。ローマに出て、先輩政治家のなかの文化的グループに親しみ、紀元前81年に法廷弁論家として登場し、成功を収めた。前79~前77年に東方に留学、アテネ、小アジア、ロードスで先学の教えを受けた。以後、元老院議員となるコースを進み、前75年にクワエストル(財務官)としてシチリアに赴任した。このときのつながりから、前70年にはシチリア住民のパトロンとしてシチリアの悪総督ウェレス(在任前73~前71)を法廷で訴追し、当時最高の弁論家とされたホルテンシウスQuintus Hortensius(前114―前50)と論戦して大勝利を得た。この「ウェレス弾劾演説」(関連文献とも全7編)は、当時のローマの属州支配に関する貴重な史料である。前69年にアエディリス(按察(あんさつ)官)、前66年にプラエトル(法務官)に就任した。実業界に活躍する騎士身分(富裕な身分)とのつながりの深い彼は、やがてもてる階級(元老院身分と騎士身分)の大同団結を唱え、元老院を中心とする共和政の伝統を擁護したが、前63年にはコンスル(統領)として、貧民の不満を利用して反乱を起こそうとしたカティリナ一派の陰謀を鎮圧し、「国父」の称を得た。その際の「カティリナ弾劾演説」(4編)も有名である。しかし、彼の元老院中心路線は、民衆派政治家の攻撃の的となり、前58~前57年に彼はローマから追放された。前49年以後のカエサルとポンペイウスの内乱では、後者を支持し、ポンペイウスの敗死後カエサルの寛恕(かんじょ)を得てローマに戻った。前44年のカエサル暗殺ののちは暗殺者側を支持し、いまや元老院の重鎮として、オクタウィアヌス(アウグストゥス)と結びつつアントニウスと闘った。その際の「アントニウス弾劾演説(フィリッピカ)」(現存14編)も彼の代表作の一つである。しかし、前43年12月、アントニウスの部下によって殺された。
彼の政治生活の間の思索は、『国家論』『法律論』『義務論』『友情論』『老年論』『神々の本性』『最高の善悪』『弁論家論』などの著作を生み、また彼の膨大な書簡集(『アッティクス宛(あて)書簡集』『友人宛書簡集』その他)は当時の社会、政治などを知るきわめて重要な史料である。彼の哲学者としての思想史的地位はかならずしも高くないが、彼の言語、文章はラテン語散文のもっとも模範的なものとされ、後世への影響が大きい。
[吉村忠典 2015年1月20日]
『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』
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前106~前43
古代ローマの政治家,文人,雄弁家。ラティウムのアルピヌム生まれ。騎士の出身。告訴,弁護など法廷を舞台に政界に進出した。前63年コンスルのとき,カティリナの陰謀を破り国父の尊称を得た。共和政の擁護者で,カエサルとしばしば対立したが,カエサル没後はアントニウスと対立,暗殺された。書簡,演説,哲学的著述などを多く残し,その文章はラテン散文の範とされる。
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…多様な手口で全島の都市・富裕者・土地所有者を搾取した。帰任後,属州民の訴えを容れたキケロは有力門閥の妨害工作にもかかわらず彼を不当搾取罪で告発し,自らシチリアで膨大な証拠類を収集。ウェレスは第1次公判後敗訴を認めてマッシリアに退去した(前70)。…
…当時,大カトー,ガイウス・グラックスらが雄弁家として知られたが,共和政時代の主要な雄弁家はすべて政治家としても活躍した。ローマ雄弁術の頂点はキケロであり,そのカティリナ弾劾演説は有名である。またマルクス・アントニウスのカエサル追悼演説もよく知られ,シェークスピアの《ジュリアス・シーザー》中にも,その場面が現れる。…
…あらかじめ若干の知悉した場所(トポス)を脳中に設定し,記憶すべきものをそこに配置しておけば,想起に際して,それらの場所との関連性を手がかりとして,容易に想起作用をすすめることができる,というのがその原理で,場所的記憶術ともいわれる。この著作は,長らくキケロの著作と考えられ,たんに古代記憶術の代表作としてのみならず,記憶術の典拠として権威を保ちつづけた。とくに14世紀から16世紀にかけてヨーロッパでは記憶術が流行し,さまざまの記憶術書が著された。…
…ローマの弁論家,政治家,哲学者キケロの倫理に関する最後の著作(前44)。ストア哲学,なかんずくパナイティオスの教えに基づいて一般道徳を説いており,息子マルクスの教育のために書かれた。…
…なお,舌の病気には舌炎,舌癌などがある。口味覚【黒田 敬之】
[舌の文化史]
弁論を技術(アルス)の女王とみたキケロは,肺から口の裏に1本の動脈が走っていて心に発した言葉を声にかえ,舌が歯や口腔をたたいて明りょうな音声の流れにすると考えた(《神の本性について》)。またレオナルド・ダ・ビンチは脳底からの神経が舌全体に分布するとし,舌には24の筋が6群となって舌を多様に働かすと考えた(《手記》)。…
…これが速記方式の初めであり,前350‐前300年ころのものがギリシアのアテナイやデルフォイで発見されている。ラテン語の速記方式として有名なのは政治家キケロがその解放奴隷ティロTiroに考案使用させたものであり,ティロはキケロの死後その演説集を公にした。当時はローマの元老院でも用いられ,その最初はカティリナの陰謀に対するカトーの演説(前63年12月5日)だとされている。…
…手紙はインクencausturumでパピルスchartaにペンcalamusで書かれた。キケロは友人のアッティクス宛などは自筆で書いたが,たいていは書記ティロTiroに口述し,ティロが控えを取っておいたのとキケロの兄弟のクイントゥスやアッティクスがキケロからの来信を保存していたので後世に多くの書簡が残ることになった。ホラティウスは韻文(長短短六脚格)の書簡を残して書簡詩epistulaの伝統を開き,オウィディウスや12世紀の南仏詩人(中世プロバンス語ではbreus,letrasと呼ばれ,教訓的なものはensenhamenといわれ,pistola,epistolaということはまれであった),後世のユスタッシュ・デシャン,クレマン・マロ,ペトラルカ,ジョン・ダン,ポープ,ラ・フォンテーヌ,ボアローらに継承された。…
…生没年不詳。著書として,キケロの《国家論》第6巻第8章に相当する霊魂の死後の運命を論じた《スキピオの夢》の注解2巻,ギリシア・ローマ伝来の神々の統合を比喩的解釈を通して試みた《サトゥルナリア》7巻,中世における要約のみが伝存する《ギリシア語とラテン語との動詞の異同》がある。前2者は,いずれもプロティノス,ポルフュリオス等の発想を基調とし,12世紀中葉までカルキディウスのプラトンの《ティマイオス》の訳と注解と並んで,西方ラテン世界におけるプラトン主義の知識の源泉としての意義をになう。…
…
[共和政末期(前1世紀40年代まで)]
グラックス兄弟の社会改革の試みが失敗したあと,民衆派と貴族派の対立は激化し,これを背景に,マリウスとスラの抗争,スラの独裁と恐怖政治,第1次三頭政治,内乱,カエサルの独裁と暗殺,第2次三頭政治など,大小さまざまな抗争・対立・混乱が続き,ついにローマ共和政は崩壊する。この激動の時代にみずから政治家として現実に行動しながらそれを文筆活動に反映させた,時代精神の権化のような人物がキケロである。この時代の政治家はみな優れた演説家であったが,キケロの雄弁の前にはすべて色あせてしまい,後世に伝えられるに至らなかった。…
※「キケロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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