テミストクレス(読み)てみすとくれす(英語表記)Themistokles

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テミストクレス」の意味・わかりやすい解説

テミストクレス
Themistoklēs

[生]前527?
[没]前460?
古代ギリシア,アテネの政治家,将軍。名門リュコミダイ家の出であるが,母はギリシア人ではなかったらしい。クレイステネスの改革の際に市民権を得た。アテネ海軍の創始者であり,ペルシア戦争救国の英雄であるが,民主派の中心人物であったため,保守的傾向が強い古代の歴史家たちは,おおむね批判的であった。ヘロドトスも前 480年頃の彼を評して,政界の新参者であったとしている。実際には前 493年筆頭のアルコンに選ばれ,アケメネス朝ペルシアの脅威を感じてペイライエウス (現ピレエフス) の軍港建設と海軍増強に着手。政敵ミルチアデスの死 (前 489) 後,勢力を強め,前 483年ラウレイオン銀山からの収益を軍艦建造に向けるように民会 (エクレシア ) を説得,これに反対するアリステイデス陶片追放 (オストラシズム ) し,アテネを 200隻の3段櫂 (オール) 船を有するギリシア第1の海軍国にした。前 480年には将軍 (ストラテゴス ) としてアテネ艦隊を指揮し,ペルシア軍が陸路アッチカに迫ると,老人や婦女をトロイゼンなどへ疎開させ,残りの全アテネ人を軍艦に乗込ませた。サラミスに集結したギリシア連合艦隊はペルシア海軍と決戦を交え,彼の作戦により大勝 (→サラミスの海戦 ) 。その後,スパルタの意向に反してアテネの城壁を再建し,防備を一層強固にしたが,アテネ政界における保守派の連合によって次第に勢力を失い,前 473~471年陶片追放となり,さらに追放中ペルシア王と内通しているという噂のため死刑の宣告を受けて小アジアへ逃げ,ペルシアのアルタクセルクセス1世のもとで余生をおくった。彼の一貫した海軍増強策は,当時のアテネの国難をはねのけ,のちの海軍国としてのアテネの基礎を築いた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「テミストクレス」の意味・わかりやすい解説

テミストクレス
てみすとくれす
Themistokles
(前528ころ―前462ころ)

古代ギリシア、アテネの政治家、将軍。海軍第一主義を唱えて、ミルティアデスの没(前489)後有力となった。紀元前483年に政敵アリステイデスをオストラキスモス(陶片追放)で遠ざけ、またラウリオン銀山の収益から100隻の三段橈船(どうせん)を建造して、強力な艦隊をつくった。ペルシア王クセルクセス1世の遠征の際には、ギリシア艦隊の作戦を主導し、サラミスの海戦(前480)では詭計(きけい)を用いてペルシア軍を狭い水路に誘い出し、大勝利を得た。ペルシア軍退却後、巧妙な外交策でスパルタの反対を抑えて、アテネの城壁を再建した。しかし彼の反スパルタ的姿勢は市民の不信を招き、親スパルタ派のキモンに圧倒され、前470年ごろ自身オストラキスモスにあってアルゴスへ退いた。さらに前468年ごろペルシアとの内通の罪で訴えられ、欠席裁判で死刑を宣せられたため、旧敵ペルシアへ逃れた。彼はここで小アジアのいくつかの都市の太守に任ぜられたが、まもなくマグネシアで死亡した。

[篠崎三男]

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