ベトナム北西部,トンキン山地のラオス国境近くの山間盆地にある町。タイチャン峠を越えてトンキン地方北部からラオス北部へ入る街道に沿う戦略上の要衝。第2次大戦後ホー・チ・ミンの率いるベトナム軍は,植民地再支配をねらう旧宗主国フランスとの衝突をくり返し,ラオス方面への進出を企てた。これに対しフランス軍はナバール将軍指揮下に精鋭部隊をこの地に送り,ラオスを防衛しようとし,空輸により戦力を強化した。ベトナム軍はボー・グエン・ザップ指揮下にこれを包囲し,1954年3月から5月にわたり激戦を展開,ついにフランス軍は5000余の死傷者を出し,残りは降伏した。フランス軍はベトナム軍の目的が民族の完全独立にあることを理解しえず,これが敗因となったとされる。この戦いはベトナム情勢に決定的影響を及ぼし,同年7月のジュネーブ休戦協定(ジュネーブ会議)の締結となり,北緯17度線を軍事境界線とすることがきめられることとなった。
執筆者:別技 篤彦
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ベトナム北西部、ラオスとの国境に接した、ライチャウ省(人口58万9000。1999)南部にある都市。周辺を2000メートル級の山に囲まれた標高460メートルの盆地に位置する。人口約4万6000。古くから交通・軍事上の要地で、とくにメオやタイなどの山地民族との関係が深かった。ボー・グエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍とド・カストリ将軍の率いるフランス軍がこの地で対決し、1954年3~5月にわたる55日間の戦いののち、ベトナム軍が勝利を収めた。この戦いの結果、同年7月にジュネーブ協定が締結され、フランスのインドシナ支配の終焉(しゅうえん)をもたらした。市内には戦勝記念博物館がある。戦後は、社会主義農業の先端をいく国営農場が設置され、軍人が入植し、西北少数民族自治区に組み入れられた。この地方に多いメオ人は、かつては大規模にケシを栽培していたが、今日では豆類の生産も行っている。
[菊池一雅]
ベトナム北部のラオスとの国境近くにある盆地の町。ムアンテーンと呼ばれ,古くから黒タイ族の居住地だった。インドシナ戦争末期の1953年,フランス軍はベトナム民主共和国軍の主力をおびき寄せるためにここに大規模な陣地を構築した。しかし,ベトナム軍が盆地周辺の山地に大型火器を配備したためフランス軍は苦戦し,54年5月7日同地のフランス軍は降伏した。このディエンビエンフーの戦いは,おりからジュネーヴで開催されていた和平会議に大きな影響を与えた。
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…この戦闘部隊をパテト・ラオと呼ぶ)を結成し,臨時抗戦政府をサムヌア省に樹立した。54年ベトナムにおけるディエンビエンフーの勝利を可能にしたのは,パテト・ラオ勢力がラオス北部のポンサリ省とサムヌア省を解放区としていたことが大きかった。1953年10月に王国政府はフランスとの間で〈友好連合条約〉を結び,これによってラオスは完全独立を達成した。…
※「ディエンビエンフー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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