精選版 日本国語大辞典 「ハノイ」の意味・読み・例文・類語
ハノイ
- ( Hanoi ) ベトナム社会主義共和国の首都。インドシナ半島北東部のトンキン‐デルタ中央部にあり、ホン(旧称ソンコイ)川の本流に臨む。中国の隋代に交趾郡政府、唐代に安南都護府が置かれ、一一~一九世紀にはベトナム歴代王朝の首都、一九〇二年以後はフランス領インドシナの主都。
翻訳|Hanoi
ベトナムの首都。同国北部のトンキン・デルタ中部、ソン・コイ川右岸のズオン川との合流点に位置する。人口139万6500(2003推計)。かつては城壁に囲まれた中国風の都であったが、フランス領時代に改造され、ホアンキエム湖(還剣湖、小湖)周辺にフランス風の町並みがつくられた。現在はベトナムの政治、経済、学術の中心地で、市街は拡大され、面積は2133平方キロメートルに及ぶ。中心部はホアンキエム、ハイバ、ドゥンダ、バディンの各地区に分かれ、それに郊外のタンチ、トゥリエム、ドンアン、ザラーム、バビなど11地区が加わる。
中心部にはタイ湖(西湖)の近くにホー・チ・ミン廟(びょう)をはじめバーディン広場、政庁、一柱寺(1049建立)があり、またホアンキエム湖付近には玉山寺(小湖の中央の島にある)、1070年李(り)聖宗が建立した文廟、ベトナム独立の英雄チュン姉妹の廟(円明寺、1142建立)などの歴史的遺跡が多い。中心部を取り巻く新市部は、住宅・工場地区となっている。工業では化学、建設、農具などのほか、自転車、たばこ工業が盛んである。交通は、国道1号線が南下してホー・チ・ミン市へ延び、北はハジャンから中国、西はラオスに通じる。鉄道は南はホー・チ・ミン市、北西は中国の昆明(こんめい/クンミン)、北東は友誼関(ゆうぎかん/ユーイーコワン)に通じる。市街の北方約40キロメートルにノイバイ国際空港がある。
[菊池一雅]
ベトナム古代王国の都や竜編(りゅうへん)など漢代以降の中国属領期の交趾(こうち)や交州の治所はすべてハノイ市の近郊にあったが、3世紀末、晋(しん)が竜編城を市の西部、トーリック川沿いに移して、新城を大羅(たいら)城とよび、隋(ずい)がここを交州の治所宋平としたのが政治都市ハノイの起源で、唐も大羅城に都護府(とごふ)を置いた。11世紀に李朝(リイ朝)が大羅城を外城とする昇竜城を築いて昇竜(タンロン)を都に定め、陳朝(チャン朝)、黎(れい)朝(レ朝)ともにこれを引き継いだが、陳朝では中京、陳朝を簒奪(さんだつ)してタインホアの西都に遷都した胡(こ)朝(ホ朝)では東都とも称し、胡氏を滅ぼしてベトナムを侵略した明(みん)は昇竜城を東関城と改称した。黎朝では東都と東関城の名のほか中都、奉天城とよばれたが、トンキンの呼称の起源である東京(ドンキン)が正式の名となった。同時に職種によって住み分けられるギルドの町として発展した城下は普通名詞「みやこ(ケ・チヨー)」でよばれたが、昇竜は中世後期から近世にかけて政治・文化の中心であるとともに北河(北部)最大の交易都市として栄えた。黎朝末に清(しん)国軍による侵略を被ったが、これを撃退した西山(タイソン)政権でも北部の軍事・行政を管轄する最重要都市としてその北平王の居城とした。19世紀初頭に成立し、フエ(ユエ)に遷都した阮(げん)朝(グエン朝)は昇竜を昇隆の文字にかえるとともに、北城総鎮を置く特別都市とした。阮朝の明命(ミンマン)期に地方行政を省に区分したとき、紅河とその支流に囲まれた地方が河内(ハノイ)省となり、昇隆はその省会ハノイとなった。
ハノイは19世紀後半に始まるフランスの侵略の過程で1873年と82年にフランス軍に占領され、そのたびに締結された条約でベトナムの植民地化が進み、84年に北部は保護領トンキンとなってハノイはその首都に定められ、ついでフランス領インドシナが成立するとその総督府の所在地となり、さらにフランス領直轄都市となった。1945年に独立したベトナム民主共和国はハノイを首都に定め、フランスの再侵略でこれを一時放棄したが、54年に奪回し、ジュネーブ協定による南北分裂期も全土の首都を称した。76年南北の統一かなったベトナム社会主義共和国成立後、改めてベトナムの首都となる。
[川本邦衛]
ベトナムの首都。人口142万(2004)。ベトナム北部のトンキン・デルタの中央やや北寄りに位置する。中国語で河内と記されるように,ソンコイ川本流とその支流ドゥオン川に囲まれた地域に立地する。河口から約150km上流にあるが,標高は6mにすぎず,乾季にはトンキン湾の潮汐の影響がこの付近にまで及ぶ。ハノイでのソンコイ川の水位は低水時で2.5mほどであるが,増水期には11~12mにも及び,人々は絶えず築堤を行ってこれと対抗してきた。7世紀後半に唐の安南都護府がこの地に置かれ,都市が建設された。これは当時の外洋船のさかのぼり得る限界点を選んだものと思われる。1010年にはベトナム初期の民族王朝リ(李)朝の太祖の都するところとなり,タンロン(昇竜)と命名された。以来19世紀初頭に中部のフエに都が移されるまで歴代ベトナム王朝の首都とされ,トンキン地方の政治,経済,文化の中心であった。19世紀末フランスの侵略を受けてフランス領インドシナの主都とされたが,第2次大戦中は日本が占領し,日本の敗北後の1945年9月に北ベトナムの首都となり,南北統一後もその地位を保っている。
市街はいくつかの地区に分かれる。北西部のタイ(西)湖に接する地区はかつての王城の地で,一柱寺をはじめ多くの寺院があり,大統領官邸や国会議事堂,植物園もある。これと鉄道を隔てた東部は19世紀以来開けた商業・手工業地区で,狭い街路が連なる。その南部はフランス植民地時代の計画的市街地で,ホアンキエム(還剣)湖を中心に政府機関,外国公館,大学,研究所などの施設が集まる。熱帯樹の茂る幅の広い街路が通り,繁華街もあり,また南方には〈ベトナムのジャンヌ・ダルク〉といわれるチュン(徴)姉妹を祭る寺院がある。フランス植民地時代に極東学院が設けられてから,ベトナム学術研究の中心ともなった。ハノイは植民地時代は完全な消費都市であったが,独立以来活発な生産都市に変わっている。国営の各種工場が郊外につくられ,紡織,醸造,缶詰,セッケン,ゴムをはじめ,ソ連の援助による機械工業などがある。また交通の一大中心で,南のホー・チ・ミン市と結ぶ縦貫鉄道は1936年に完成し,さらに中国国境へものびる。
水運はソンコイ川がハノイ付近の泥の堆積で浅くなり,大型船は通れないが,喫水3mくらいまでの船は満潮時には遡航できる。ソンコイ川のロンビエン橋を渡った対岸にジャラム国際空港がある。
執筆者:別技 篤彦
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紅河(こうが)デルタ中央に位置するベトナムの首都(中央直属都市)。7世紀の安南都護府を前身とし,1010年に李(リー)朝が首都として昇竜(タンロン)城と呼んだ。18世紀末まで首都,河川交易港として繁栄,大航海時代にはトンキン,ケーチョなどの名で世界に知られたが,フエに都を置いた阮(グエン)朝のもとで1831年に河内(ハノイ)省城と改められた。フランス領期にはインドシナ総督府が置かれ,1945年ベトナム民主共和国,76年ベトナム社会主義共和国の首都とされた。
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