本来はデンマーク人の呼称であるが,広くは8~11世紀に北欧各地からグレート・ブリテン島に侵入したバイキングの総称。彼らのイングランドへの略奪活動は8世紀末に始まり,各地の教会,修道院,都市に甚大な被害を与えた。9世紀前半ウェセックス王エグバートは一時これを撃破したが,彼らの侵入はやまず,9世紀後半には定着をも開始して,イングランドの大半は彼らに占拠された。アルフレッド大王は878年エディントンの戦でこれに大打撃を与えたので,その攻撃の矛先は鈍った。しかし,ほぼ今日のロンドンとチェスターを結ぶ線以東は,デーン人が濃密に定着して,デーンロー地方(デーン人の法,慣習の行われる地)として,長く独自の性格を保った。この間,彼らはスコットランド,ウェールズ,アイルランドにも侵入・定着して,大きな勢力となった。10世紀に入り,イングランド諸王は反撃を開始し,同世紀半ばころまでにはデーンロー地方を服属させたが,同世紀末には再び北欧からの大規模な侵入が再開され,デーンローのデーン人もこれに呼応して立ち上がった。イングランド王エセルレッド2世はその攻撃をかわすため,デーンゲルドという税を徴収して彼らに与えて平和をあがなったが,1016年デンマーク王子クヌットはついにイングランドを征服して王となり,デーン朝を開いた。彼はまもなくデンマーク王となり,ノルウェー王をも兼ね,スウェーデンの一部をも支配する北海帝国を建設したが,このころがデーン人の活動の最盛期であった。35年クヌットの死とともにその帝国も瓦解し,イングランドでも42年アングロ・サクソン系のエドワード懺悔王がデーン朝に代わって即位した。66年,ノルマン・コンクエストの直前,ノルウェー王ハーラル苛烈王がイングランドを攻撃して,スタンフォード・ブリッジの戦で敗死したが,これがデーン人の大規模な攻撃活動の最後であり,以後イングランドへの侵入は終息した。
以上の3世紀間にわたるデーン人の侵入が,イングランドに与えた影響は大きい。彼らの圧力を受けて,これまでの七王国の分立が一個のイングランド王国の形成に向かったこと,また彼らの攻撃を防ぐ必要から各地にブルフ(城砦都市)がつくられ,それが中世都市の起源となったこと,さらに彼らの商業活動が刺激となって,これらの都市を中心に商業が発展したことなどである。
執筆者:青山 吉信
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8世紀ごろからイングランド東部、北フランス海岸に来襲したノルマン人の一派。5世紀ごろからユトランド半島に住し9世紀ごろからデンマーク王国を形成。イングランドに789年ごろから侵入。835年にテムズ河口を襲い、さらに865年イースト・アングリアに侵入してヨークを襲い、東部イングランドに定住。デーン人の法が行われるデーンロー地方が生まれた。ヨークにハーフダン王、イースト・アングリアにグスルムGuthrum王(?―890)が出たが、当時のウェセックス王アルフレッドは、サクソン人の期待を担って善戦し、886年グスルム王と協定してデーン人の境域を定め、サクソン人の生命財産を防衛した。10世紀末のエセルレッド2世Ethelred Ⅱ(968?―1016、在位978~1016)時代さらに大規模に侵入し、991年からはイングランドにデーン人の侵入に備えて地租「デーンゲルド」が徴収される風習をおこす。
1016年デンマーク王子クヌードが、エドマンド王(エドマンド2世Edmund Ⅱ。993?―1016、在位1016)を破り、エドマンドの死後イングランド王となって、デーン朝を開いた。異民族征服者として厳格な統治をしたが、彼の死後数年で王朝は断絶した。
[富沢霊岸 2022年10月20日]
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8~11世紀に現在のデンマークからイングランドに侵入したノルマン人の一派。9世紀末イングランドのアルフレッド大王がいったん撃退に成功したが,その後も侵入は続き,イングランド王は東部にデーン人の支配する地域(デーンロウ)を設けて平和共存政策をとった。10世紀後半に開始された侵入の結果,1016年デーンの王クヌート1世がイングランド王位につき,その王朝は42年まで続いた。
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…現在もスコットランド,ウェールズ,コーンウォール,そしてアイルランドなどイギリス諸島の外縁部にはケルト系民族の伝統が残り,この地域あるいは住人を〈ケルト系民族の外縁Celtic fringe〉と呼ぶ。9~11世紀にはデーン人,ノルマン人が襲来して征服王朝を建て,以後ノルマン・フランス系民族が支配階級の中核となり,イギリスの言語,制度,習俗などに大きな影響を残した。イギリス中世史は,これら諸民族の抗争と融和の過程であったが,近代に入ってからもアイルランドとヨーロッパ大陸からの移住者は絶えなかった。…
…一方,ダブリンという地名はアイルランド語の〈ドゥブリンdubhlinn〉(〈黒いよどみ〉の意)からきており,これはリフィー川の水の色に由来している。 アイルランドに初めて都市を築いたのは,北欧から侵入してきたデーン人であった。9世紀半ばに築かれたダブリンはその代表的なものであって,デーン人はここを商取引の中心として,アイルランドの獣皮や羊毛をイギリスやヨーロッパに運び,ブドウ酒や奴隷を輸入した。…
…そのほかヨークシャー炭田に近接するため,薬品,自動車,電子などの近代工業も立地し,ヨークシャー工業地域の一角を占める。古くからトレント川の渡津集落として成立し,付近には洞窟遺跡も見られるが,9世紀にデーン人の〈五都市〉の一つとして要塞化され発展,その後ノルマン人によって新城も建設された。1642年にはチャールズ1世側がこの町で蜂起してピューリタン革命の端緒となったが,のち議会軍に占領された。…
…交易地ドレスタットは834‐863年の間に7回の襲撃をうけ,パリ(845)を含め多数のフランク諸都市が略奪された。イングランドは830年代からデンマーク人(デイン人,デーン人)の侵入をうけ,アルフレッド大王がウェセックス王に即位したとき(871),ウェセックス以外のアングロ・サクソン諸王国はすべてデイン人に屈伏していた。バイキングの9世紀における成功は,その機動力と集中力および防衛側の不統一と恐怖に基づいている。…
※「デーン人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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