日本大百科全書(ニッポニカ) 「トレーサー」の意味・わかりやすい解説
トレーサー
とれーさー
tracer
対象となる物質の行動や分布状態、化学反応の過程を追跡するために目印として外部から加える物質。追跡子ともよばれる。二つの湖が地下でつながっているかどうかを調査する目的で、一方の湖に緑色の蛍光色素の一種であるフルオレセインを投入し、一定時間後に他方の湖に緑色の着色が現れることによって調べた例が、化学物質をトレーサーとして使用した最初とされている。しかし、現在ではラジオ・アイソトープradioisotope(略称RI。放射性同位体ともいう)がトレーサーとして広く利用されている。その理由は、対象となる物質中のある元素をRIで置換すれば、目印となる物質が当該物質とまったく同様に行動することが期待でき、かつRIから放出される放射線は高感度で容易に測定可能だからである。放射性トレーサーの利用は、第二次世界大戦後、原子炉と加速器によって多種多様なRIが大量に生産できるようになり、理工学、農学、生物学、薬学、医学などのあらゆる研究分野で急速に拡大していった。
同位体は当該元素と原子番号が等しいために物理化学的に同様に挙動することが期待できるとはいえ、両者の質量の違いにより微妙に挙動に差がみられることがある。この差を「同位体効果」という。同位体効果は原子番号の大きな元素よりも原子番号の小さな元素で顕著に現れる。たとえば水素は安定同位体の水素1(プロチウム。記号H、天然同位体存在比99.9885%)と水素2(ジュウテリウム。同D、同0.0115%)で構成されるが、RIの水素3(トリチウム。同T、半減期12.32年)は水素1の3倍も大きな質量を有する。このため同じ水分子でも、軽水(H2O、分子量およそ18)と重水(HDO、分子量およそ19)とトリチウム水(HTO、分子量およそ20)では、沸点などに微妙な差が現れる。軽い元素についてのトレーサー利用では同位体効果に注意する必要があるが、軽い元素を除く通常のトレーサー利用においては、同位体効果は無視できると考えてよい。適当なRIが得られない場合は、トレーサーとして安定同位体を用い、質量分析計などで測定し追跡することもある。トレーサーは、物質の物理的な挙動や分布状態を追跡する場合には物理的トレーサー、化学反応の過程を追跡する場合は化学的トレーサーとよばれることもある。
RIを実験室ではなく野外で使用することは、環境汚染につながりかねず、通常はなかなかむずかしい。このような場合にはアクチバブルトレーサー法を用いるとよい。この方法は非RI、すなわち安定同位体をトレーサーとして用い、対象物から採取した安定同位体を放射化分析(高感度の元素分析方法の一種で、安定同位体を核反応によりRIに変え、その放射線を測定することにより、もとの安定同位体の種類と量を求める方法)することによりその量を求め、対象物の挙動を追跡するものである。たとえばアクチバブルトレーサー法の有名な例としてサケの回遊調査がある。これは天然に微少量しか存在しない元素ユウロピウムを餌(えさ)に混ぜてサケの稚魚に与えると、摂取されたユウロピウムが鱗(うろこ)に濃縮されることを利用するものである。この稚魚を川に放流し、数年後に海洋や川に遡上(そじょう)するサケの成魚を捕獲して鱗を放射化分析することにより、サケが海洋でどのように回遊し、どの程度の割合で放流したもとの川に戻ってくるかを調査する。
動植物の研究ではRIで標識された標識化合物を用いて機能や代謝を調べたり、臓器・組織内での分布状態を調べたりと、RIはトレーサーとして多用されている。また核医学的診断においても、テクネチウム99m(半減期6.02時間。mは核エネルギーが励起(れいき)状態にあることを表す)、ヨウ素131(同8.02日)、フッ素18(同109.8分)などで標識された体内診断用放射性医薬品とよばれる標識化合物がトレーサーとして広く利用されている。
[野口邦和 2015年8月19日]
医学
医学分野の利用については、試料測定(in vitro検査)と生体測定(in vivo検査)とに大別される。
試料測定では生体へのトレーサーの投与は必要なく、血液・尿などが試料となる。トレーサーを標識した測定目的の物質が入った試験管に試料を入れ、標識物質と非標識物質を競合させ、放射免疫測定法、競合的タンパク結合分析法、アイソトープ希釈法などを利用し、放射能の測定により試料中の目的物質を測定ないし定量するものである。測定可能の物質としては、種々のホルモン、アンギオテンシン、オーストラリア抗原・抗体、ビタミンB12、コレステロールなど多岐にわたっている。また、新しい物質の測定法も開発中である。試料測定は、他の方法と比較して感度が高く、多数の試料を短時間に測定できる利点がある。
生体測定は、ある特定の臓器に集まる物質にRIトレーサーを標識した放射性医薬品を生体に投与し、トレーサーより放出されるγ(ガンマ)線を体外で検出し、臓器の形・大きさ、病変の有無を診断するものである。検査が可能となる臓器は、脳、甲状腺(せん)、唾液(だえき)腺、肺、肝臓、脾(ひ)臓、胆道、膵(すい)臓、腎(じん)臓、副腎、骨、骨髄、心臓、大血管など、ほとんどの臓器がその対象となる。生体測定では、放射性医薬品の静脈注射のみで非侵襲的に検査ができ、得られる画像も超音波検査、X線CTとほぼ同程度であり、診断的価値が高い。
[西川潤一]