ハンガリーの物理化学者。ブダペストに生まれる。ベルリン工科大学、フライブルク大学などを卒業後、チューリヒ工科大学のローレンツRichard Lorenz(1863―1929)、カールスルーエ工科大学のハーバーの助手を務めた。1911年マンチェスター大学のラザフォードの下で放射性物質に関する研究に従事、1913年ウィーンのラジウム研究所に移り、鉛の同位体をトレーサーとする鉛化合物の溶解度、交換反応の研究を行った。これが放射性同位体トレーサー技術の始まりである。第一次世界大戦で帰国、ブダペスト大学物理化学教授となる。1920年コペンハーゲン大学ボーア理論物理学研究所に客員教授として招かれ、同位体分離の研究を行う。1922年コスターDirk Coster(1889―1950)と共同でX線分光法によりハフニウムを発見し、ボーアの原子構造理論を実証した。同年、マメ科植物による鉛同位体の吸収を測定し、生物学へのトレーサー技術応用の道を開いた。1931年(昭和6)アメリカからの帰途、理化学研究所の招待で来日。1943年ドイツ軍の侵入後はスウェーデンに亡命、ストックホルム大学有機生物学研究室教授。放射性同位元素を利用して各種生物現象の機構を明らかにし、癌(がん)細胞中の血液の変化など癌に関する研究も行った。1943年化学反応の研究における放射性同位元素応用の業績によりノーベル化学賞を受賞。主著に『Das Element Hafnium』(1927)、『Radioactive Indicators』(1948)、『Adventures in Radioisotope Research』(1963)などがある。
[後藤忠俊]
ハンガリーの化学者.1908年ドイツのフライブルク大学で学位を取得.1912年マンチェスター大学に移り,E. Rutherford(ラザフォード)のもとで研究を行う.ここでN.H.D. Bohr(ボーア)と親しくなった.第一次世界大戦に従軍し,戦後,ブダペスト大学教授を一時務めた後,1919年にBohrを頼ってコペンハーゲンに移り,1920年Bohrの理論物理学研究所の客員教授となった.1926年以降は,フライブルク大学,コーネル大学などでも教えたが,1943年からは主としてストックホルム大学で研究した.戦後,一時期,ベルギーのヘント(ガン)大学教授を務めていた.マンチェスター大学では,普通鉛と放射性鉛との分離に取り組み,成功こそしなかったが,放射性鉛の性質の研究を通して微量な鉛を検出する放射性トレーサーの着想を得た.30年後の1943年,この方法の普及を受け,ノーベル化学賞を受賞.コペンハーゲン大学では,72番元素が希土類元素か否かが論議されていた当時,ボーア理論にもとづいて,周期表4族元素ジルコニウムの鉱物中に,この元素を発見した.この発見はボーア理論の強力な裏付けとなった.この元素の名称ハフニウムは,コペンハーゲンのラテン語名Hafniaに由来する.放射性同位元素を利用して各種生物現象の機構を明らかにする研究も行っている.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
ハンガリーの化学者。ハンガリー名はHevesi György。フライブルク大学で学位を得,カールスルーエ工業大学でF.ハーバーの助手を務め,1911年マンチェスター大学のE.ラザフォードのもとで放射能の研究を行った。23年コペンハーゲンのN.H.D.ボーアのもとでコスターDirk Coster(1889-1950)と共同で,X線分析法によって72番元素ハフニウムを発見し,ボーアの原子構造論に大きな支持を与えた。26年フライブルク大学教授となり,第2次大戦中スウェーデンに亡命し,ストックホルム大学教授を務めた。一方,放射性同位元素をインジケーターやトレーサーとして化学反応や生物現象の機構の解明に利用し,43年ノーベル化学賞を受賞した。また58年原子力平和利用賞が授与された。
執筆者:矢木 哲雄
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