日本大百科全書(ニッポニカ) 「ド・デューブ」の意味・わかりやすい解説
ド・デューブ(Thierry de Duve)
どでゅーぶ
Thierry de Duve
(1944― )
ベルギーの美術史家、美術批評家。ヘントの聖ルカ高等専門学校とドイツのウルム造形大学で工業デザインを学び、哲学バカロレア(大学入学資格)取得後、ブリュッセルのルーベン大学で心理学を専攻。さらにパリの社会科学高等研究院博士課程でルイ・マランに師事、「画家デュシャンの移行と変移」に関して「絵画唯名論」というテーマで博士の学位を取得している。
ブリュッセルの各大学はもとより、アメリカのマサチューセッツ工科大学、ジョンズ・ホプキンズ大学、ペンシルベニア大学、テキサス大学をはじめとしてカナダのオタワ大学、パリ国際哲学院やドイツのカールスルーエ州立造形大学等において特別招聘教授として、デュシャン、第二次世界大戦後の芸術などをテーマに講義を行う。パリの社会科学高等研究院をはじめ、ソルボンヌ、ストラスブール大学、レンヌ大学、グルノーブル美術学校などから学位審査員として招かれている。またパリ市立美術学校の校長も務めた。
社会科学高等研究院での博士論文が下敷きとなった1984年の著書『マルセル・デュシャン――絵画唯名論をめぐって』Nominalisme Pictural, Marcel Duchamp, la Peinture et la Modernitéでド・デューブは、色彩よりも描線に依存しているかに思われるキュビスムの影響下にあったパリの前衛芸術世界から一時離れ、1912年に表現主義全盛のミュンヘンに滞在したデュシャンについて論じた。当時デュシャンは、色彩を施すことが絵の具という既製品を選ぶことにすぎないという、色の唯名論の発見に至り、そのためデュシャンは絵画を放棄し、レディーメイド(既製品)作品の制作へと向かったと考え、この移行の時期をフロイト、ラカンの精神分析用語を引きつつ詳細に記述した。また89年の『芸術の名において――デュシャン以後のカント/デュシャンによるカント』Au Nom de l'Art; pour une Archéologie de la Modernitéでド・デューブは、まったく前例のない試みであるレディーメイド作品が、モダニズムの芸術実践の論理そのものを主題とする、いわばメタ芸術に位置するものだと指摘する。それは「これは美しい」という伝統的な美的判断を「これは芸術だ」という判断へと転換させた。ド・デューブはこのレディーメイド作品による「美」から「芸術」への転換をカントの『判断力批判』(1790)に適用し、そこにデュシャンのラディカルな試みとの隠されたつながりを読み取っていく。本書の英語版が98年に刊行された際、美術史家マイケル・フリードは同書の際立った点として、デュシャンの重要性を、対極にあると思われていたクレメント・グリーンバーグの著作と取り組むことで明らかにしたこと、またグリーンバーグのフォーマリズム(形式主義)を理解するために、デュシャンを通して再解釈されたカントを支えにしたことを挙げている。この簡潔な指摘からも、ド・デューブの仕事が従来の美術史の枠内に収まらない、きわめて独創的なものであることは明らかだ。
[松岡新一郎]
『鎌田博夫訳『マルセル・デュシャン――絵画唯名論をめぐって』(2001・法政大学出版局)』▽『松浦寿夫・松岡新一郎訳『芸術の名において――デュシャン以後のカント/デュシャンによるカント』(2002・青土社)』
ド・デューブ(Christian René de Duve)
どでゅーぶ
Christian René de Duve
(1917―2013)
ベルギーの生化学者。ベルギー人の両親が第一次世界大戦でイギリスに逃れ、ロンドン近郊のテムズ・ディットンで生まれた。1920年ベルギーに帰国。1941年ルーバン・カトリック大学医学部を卒業、第二次世界大戦後、短期間ノーベル医学研究所、ワシントン大学で研究生活を過ごし、1947年母校のルーバン・カトリック大学に戻り講師となった。1951年同大の教授に昇格、1962年から1988年までロックフェラー大学の教授を兼任した。
初期の研究は、インスリン作用のメカニズムの解明であった。研究の過程で、細胞を構成している物質を遠心分離法を用いて調べた結果、新しい細胞小器官(オルガネラ)を発見、1955年にその物質をリソゾームと命名した。リソゾームの働きについて研究を進め、その役割が細胞内の消化分解作用であることをみいだし、さらにその仕組みを解明した。その後、リソゾームとは異なる細胞小器官ペルオキシゾームも発見している。1974年に「細胞の構造と機能に関する発見」に対して、A・クロード、パラーデとともにノーベル医学生理学賞を受賞した。
[編集部]