森下洋子(読み)もりしたようこ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「森下洋子」の意味・わかりやすい解説

森下洋子
もりしたようこ
(1948― )

バレリーナ。広島市に生まれる。幼時から洲和(すわ)みち子(1914―96)、橘(たちばな)秋子バレエを学び、牧阿佐美(あさみ)バレエ団に入って、大原永子(のりこ)(1943― )とともにバレエ少女として人気を博した。1971年(昭和46)松山バレエ団移籍。74年にバルナ国際バレエ・コンクールで清水哲太郎(1948― )と組み、金賞を獲得し世界の注目を浴びた。その後、アメリカン・バレエ・シアターフェスティバル・バレエ団(現イングリッシュ・ナショナル・バレエ団)、モーリス・ベジャール・バレエ団のゲストダンサーとして活躍。ブフォネスFernando Bujones(1955― )やR・ヌレーエフと踊った『黒鳥』『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥは有名である。97年(平成9)文化功労者。2001年に松山バレエ団団長就任。清水哲太郎は夫であり松山バレエ団総代表でもある。

市川 雅・國吉和子]

『『バレリーナの情熱』(1984・大和書房)』『飯島篤撮影、テス・カルチャーセンター編・刊『森下洋子バレエ全集』1~6(1981~82)』『文園社編・刊『バレリーナへの道38 世界のプリマ 森下洋子』(2001)』『ダンスマガジン編『日本バレエ史――スターが語る私の歩んだ道』(2001・新書館)』

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百科事典マイペディア 「森下洋子」の意味・わかりやすい解説

森下洋子【もりしたようこ】

日本を代表する世界的舞踊家。広島市出身。3歳でバレエを始め1955年から東京の橘(たちばな)バレエ学校に通う。1960年に初舞台を踏み,1969年ニューヨークでロシア出身の舞踊家I.シュベッツォフ〔1904-1982〕に師事。1971年牧阿佐美バレエ団から松山バレエ団へ移籍し,1974年バルナ国際バレエ・コンクールで日本人初の優勝。アメリカン・バレエ・シアターへの客演皮切りに欧米各地に活動の場を広げ,ヌレーエフらと共演を重ねた。1981年にはベジャールの新作で主演し,翌年パリ・オペラ座に日本人として初めて出演,絶賛を浴びた。《ジゼル》《白鳥の湖》などの古典にことに定評がある。→松山樹子

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森下洋子」の解説

森下洋子 もりした-ようこ

1948- 昭和後期-平成時代の舞踊家。
昭和23年12月7日生まれ。清水哲太郎の妻。橘秋子に師事。牧阿佐美バレエ団をへて昭和44年アメリカに留学。46年松山バレエ団にはいり,プリマをつとめる。49年バルナ国際バレエコンクールで金賞受賞後は世界的プリマとして活躍。60年芸術院賞。平成9年文化功労者。13年松山バレエ団団長に就任。14年芸術院会員。24年高松宮殿下記念世界文化賞。広島県出身。吉祥女子高卒。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森下洋子」の意味・わかりやすい解説

森下洋子
もりしたようこ

[生]1948.12.7. 広島
舞踊家。3歳でバレエを始め,橘秋子牧阿佐美,イゴール・シュベッツォフらに師事。 1971年松山樹子夫妻が創設した松山バレエ団に入団,以来同団のプリマバレリーナを務める。 1974年バルナ国際バレエ・コンクールに清水哲太郎 (のちに結婚) と出場,第1位金賞を受賞。『ドン・キホーテ』『ジゼル』で R.ヌレエフと共演するなど,世界各地のバレエ団で踊り,高い評価を得た。 2001年松山バレエ団の団長に就任。 1977年芸術選奨文部大臣賞,1985年日本芸術院賞を受賞。 1997年文化功労者。

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367日誕生日大事典 「森下洋子」の解説

森下 洋子 (もりした ようこ)

生年月日:1948年12月7日
昭和時代;平成時代のバレリーナ

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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