ネーター(読み)ねーたー(英語表記)Amalie Emmy Noether

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネーター」の意味・わかりやすい解説

ネーター
ねーたー
Amalie Emmy Noether
(1882―1935)

ドイツの数学者。代数曲線論で知られるマックスMax Noether(1844―1921)を父としてエルランゲンに生まれる。初め、父の友人ゴルダンPaul Gordan(1837―1912)に不変式論を学んだ。1915年ゲッティンゲンに移り、ヒルベルトの下で研究を始めた。まず可換環において、イデアルの基底定理を約鎖律にいいかえ、その下で準素イデアルへの分解とその一意性について調べた。約鎖律とは極大条件にほかならず、今日、極大条件を満たす環をネーター環とよぶ由来はここにある。ついでデーデキント環の公理的建設を成し遂げたが、これにあたっては約鎖律のほかに倍鎖律を入れ、かつ整閉性の概念を導入した。判別式の研究では局所的考察を有効に取り入れたが、この研究で可換環から非可換環への転機がなされたと思われる。

 ネーターの真骨頂抽象代数学真価は非可換環論にあり、群環を含む準単純環の理論の完成にある。すなわち、単純環Aは斜体Dにおける完全行列環に同形になること、単純環をそのDによって分類して得る類がテンソル積の下で群(Brauer群)をつくること、それから単純環の分解概念へ、そしてガロア接合積へ、ひいては因子団の概念へと導いていった内容は、多彩で、その抽象的手法は鮮やかであった。しかもこの結果は整数論とも深く関連し、のちにこれが類体のコホモロジー論化へ導く転機を与えることになった。そして彼女の学風は全数学の抽象化に強い影響を及ぼした。これらの研究は、彼女の下に集った若い数学者、正田建次郎やファン・デル・ワールデンBartel Leendert van der Waerden(1903―1996)、あるいはアルティン、ブラウアーRichard Dagobert Brauer(1901―1977)、H・ハッセらとの討論の下で行われた。1933年、ユダヤ人の彼女はナチス迫害を逃れてアメリカに渡り、1935年、病を得て客死した。

秋月康夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネーター」の意味・わかりやすい解説

ネーター
Noether, Amalie Emmy

[生]1882.3.23. エルランゲン
[没]1935.4.14. ペンシルバニア,ブリンマー
20世紀の抽象代数学の発展に大きく貢献したドイツの女性数学者。父 M.ネーターはエルランゲン大学教授,代数幾何の専門家。その第1子に生れ,3人の兄弟の2人は,それぞれ化学者,物理学者。当時ドイツでは女性は大学に入学できなかったので,やむなく 1900年冬学期からエルランゲン大学聴講生となり,03年冬学期からは,ゲッティンゲン大学で H.ミンコフスキー,F.クライン,D.ヒルベルトの講義を聞く。 04年になって,エルランゲン大学に入学を許され,P.ゴルタンの指導で不変式論を研究。 15年,ヒルベルトに呼ばれてゲッティンゲンに移り,ゲッティンゲン大学私講師 (1919) ,員外教授 (22) 。 21年に発表した『環におけるイデアル論』は,その分野における基本的諸結果を含んでいる。また 27年の『代数体および代数関数体におけるイデアル論の抽象的建設』は,抽象代数学における古典的論文の一つであり,29年の『多元環とその表現論』は,「作用素をもつ群」の概念を導入して,多元環の構造とその表現との関係を明らかにしたもので,やはり基本的論文である。 33年,ユダヤ人であったためナチスに追われてアメリカに移住。ブリンマー・カレッジで教え,またプリンストン高級研究所の客員教授をした。ファン・デル・ベルデンの名著『現代代数学』は,ネーターと E.アルチンの講義をもとにして書かれたという。

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