日本大百科全書(ニッポニカ) 「ファブリキウス」の意味・わかりやすい解説
ファブリキウス(David Fabricius)
ふぁぶりきうす
David Fabricius
(1564―1617)
ドイツの神学者、天文学者。長周期変光星の発見者。オストフリースラント(東フリジア地方)のエッセンに生まれる。神学を修業して、1584年レスターハーフェのプロテスタント牧師となる。天文学に興味をもち、ティコ・ブラーエのウラニボルク天文台を訪れたこともあり、その死後、ケプラーとも交信し、自分の火星観測の資料を提供したりした。1596年8月3日くじら座に見慣れぬ星を発見して、その明るさを1610年まで丹念に追跡して、それが約11か月の長周期で変光する星であることを発見した。のちにヘベリウスが「ミラ」(ふしぎな星)と名づけたもの。また1604年へびつかい座の新星(ケプラーの星)、1608年大彗星(すいせい)(ハリー彗星)も観測して、従来の天界恒常観に衝撃を与えた。息子ヨハネスJohannes(1587―1615)も天文学者。1605年ウィッテンベルクで医学を修業したが、父のもとで共同観測に従ったガリレイに続いて望遠鏡で太陽を観測して独立に黒点を発見、その移動から太陽の自転を確認した。このことはガリレイに先だって、1611年に著述した。
[島村福太郎]
ファブリキウス(Guilhelmus Fabricius Hildanus)
ふぁぶりきうす
Guilhelmus Fabricius Hildanus
(1560―1634)
ドイツの外科医。本名はWilhelm Fabry。創傷医出身で外科医として名声をはせ、ドイツのパレともよばれる。また敬虔(けいけん)なキリスト信者でもあった。デュッセルドルフ近郊のヒルデンに生まれる。父は裁判所書記であったが、早く世を去ったため、13歳で学業を中断、以後、ケルンの創傷医のもとで徒弟生活を送りながら、ラテン語も身につけ、また外科医のもとで修業をしたり、解剖学の学習にも熱心に取り組んだ。33歳で書いた処女論文「壊疽(えそ)論」(1693)は印刷されて11版を重ね、さらにフランス語版も出た。フランス、ポーランド、ドイツの各地を数年ごとに移動しながら、診療と著作を行った。多くの外科器機の発明改良があり、四肢切断、膀胱(ぼうこう)結石の手術法でも知られている。
[中川米造]
ファブリキウス(Hieronymus Fabricius)
ふぁぶりきうす
Hieronymus Fabricius
(1537―1619)
イタリアの解剖学者。アクアペンデンテに生まれ、パドバ大学に学ぶ。同大学の外科と解剖学教授となり、1604年以後は研究と著作に専念。人や動物の血管、胚(はい)、胎児、胎盤、臍帯(さいたい)などを詳細に研究。精緻(せいち)な銅版画を載せた『静脈弁について』『胎児の形成について』『卵と雛(ひな)の形成について』などの著書は好評を博した。静脈弁の正確で精密な記載は彼が最初であり、弟子ハーベーの血液循環論確立の基礎となった。自費で建てた解剖講堂(テアトロ)はパドバ大学に現存する。
[澤野啓一]