レパントの海戦(読み)レパントノカイセン

デジタル大辞泉 「レパントの海戦」の意味・読み・例文・類語

レパント‐の‐かいせん【レパントの海戦】

1571年、ギリシャ中部コリント湾のレパント(Lepanto)沖で行われた、イスパニア教皇ベネチアなどの連合艦隊オスマン帝国艦隊との海戦。トルコ側が大敗した。

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精選版 日本国語大辞典 「レパントの海戦」の意味・読み・例文・類語

レパント‐の‐かいせん【レパントの海戦】

  1. ( レパントはLepanto ) 一五七一年、ローマ教皇庁スペイン、ベネチアの連合艦隊がオスマン‐トルコ艦隊をギリシア西海岸のレパント沖で破った海戦。この勝利により地中海覇権がスペインに移った。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レパントの海戦」の意味・わかりやすい解説

レパントの海戦
れぱんとのかいせん

1571年、ギリシアのコリント湾レパントLepanto(現在のナウパクトス)岬沖で、オスマン帝国と神聖同盟(リーガ・サンタLiga Santa)諸国の艦隊の間に行われた海戦。オスマン帝国皇帝セリム2世は、オランダ独立戦争、スペインのイスラム教徒反乱、フランス宗教戦争などのヨーロッパ情勢にかんがみ、西方への進出を企て対イタリア戦争を決意、1570年キプロス島を占領した。このため、東インド航路の発展によって衰色をみせていたイタリア諸都市は、大いに脅威を感じて教皇ピウス5世に訴え、教皇はスペインとイタリア諸邦に呼びかけて、この年神聖同盟がなった。同盟の中心、スペインのフェリペ2世は、ドン・フアン・デ・アウストリアDon Juan de Austria(1547―78)を司令官として艦隊を編成、トルコ艦隊と戦わせた。

 作家セルバンテスも参加したこの海戦は、神聖同盟側の有利のうちに終わった。スペインの黄金時代を象徴する一戦であったが、また奴隷漕手(そうしゅ)を主力とする大海戦の最後でもあった。

[深澤安博]

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改訂新版 世界大百科事典 「レパントの海戦」の意味・わかりやすい解説

レパントの海戦 (レパントのかいせん)

レパントLepantoはギリシア中西部コリントス湾の北岸にあり,パトラス湾に通じる海峡の入口を扼す漁港の町ナウパクトスNávpaktosのイタリア語名。16世紀半ば,オスマン帝国は地中海の制海権を手中にし,その伸張は,スペイン王フェリペ2世がバレアレス諸島住民にスペイン本土への避難を命じるほどに,地中海キリスト教諸国にとって切迫した脅威と感じられていた。1570年にキプロス島がオスマン帝国に占領されると,ローマ教皇庁,スペイン,ベネチアは連合艦隊を編成して反撃を試みた。71年10月7日,203隻の連合艦隊と230隻のオスマン海軍はレパント付近で対戦,火器と作戦に優れた連合艦隊が圧勝した。16世紀最大と評されるこの海戦は,ただちには東西両陣営の形勢逆転に結びつかなかったが,キリスト教諸国は不敗とされてきたオスマン海軍に対する萎縮感から解放されて自信を回復,またスペインの海軍力が世論の注目を集めた。文豪セルバンテスは,一兵卒として参戦して負傷,後にこの海戦を〈かつてなかった最も偉大な一瞬〉と呼んだ。
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百科事典マイペディア 「レパントの海戦」の意味・わかりやすい解説

レパントの海戦【レパントのかいせん】

1571年,キプロス島を攻略して西ヨーロッパを震撼(しんかん)させたトルコ艦隊を,スペイン,ベネチア,ローマ教皇の連合艦隊がギリシアのコリント湾口のレパントLepanto沖で反撃し,大勝した戦い。オスマン帝国に対する最初の西ヨーロッパの勝利で,これを機にスペインは最盛期を迎えた。一兵卒として戦列に加わったセルバンテスは〈かつてなかった偉大な一瞬〉と呼んだ。
→関連項目フェリペ[2世]

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旺文社世界史事典 三訂版 「レパントの海戦」の解説

レパントの海戦
レパントのかいせん
Lepanto

1571年,オスマン帝国艦隊がヨーロッパ連合艦隊に敗れた戦い
オスマン帝国のキプロス征服後,その奪回をめざすキリスト教世界が,教皇・スペイン・ジェノヴァ・ヴェネツィア連合軍を組織。艦船の中心はヴェネツィアだったが,最大の兵員を出したスペインの王弟ホアンが総司令官となって戦い,勝利した。ただし,敗北したオスマン海軍は翌年に同規模の艦隊を再建しており,地中海におけるオスマン帝国の優位は維持された。レパントは,ギリシアのコリント湾内に位置する。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「レパントの海戦」の解説

レパントの海戦(レパントのかいせん)
Lepanto

1571年スペイン,ローマ教皇ヴェネツィアの連合艦隊がオスマン帝国艦隊をギリシアのコリント湾内で破った海戦。これはオスマン帝国がキリスト教徒から被った最初の大敗であったが,東地中海の支配権を揺るがすことはなかった。他方スペインはその威信を高め,同国の極盛期を迎えた。

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世界大百科事典(旧版)内のレパントの海戦の言及

【海軍】より

…こうした〈大航海時代〉の開幕は,コンパスの発明による航海術の発達,漕走から帆走への進歩,造船技術の向上,火薬と大砲の発明など,多くの技術革新によってもたらされたものである。中世最後で最大のレパントの海戦(1571)では,新旧戦術の優劣が争われ,スペインを中心にする西ヨーロッパの同盟艦隊がトルコ艦隊を破って,東西の決戦はふたたび西側が勝利した。戦闘ではなお櫂で漕ぐ300トン前後のガレー船が多く参加したが,500トン前後のガレオン船や1500トン前後のガレアス船まで登場し,火力が斬込みを圧倒する場面も見られた。…

【セルバンテス】より

…1568年に編さんされた亡き王妃イサベル・ド・バロア追悼詩文集に,編者のロペス・デ・オヨスがセルバンテスの詩数編を載せ,〈わが秘蔵の弟子〉と呼んでいるからである。〈太陽の沈むことなき大帝国〉であったフェリペ2世時代のスペインの熱風にあおられた若きセルバンテスは,22歳のときにイタリアに渡って兵士となり,1571年には史上有名なレパントの海戦で活躍したが負傷して左手の自由を失い,〈レパントの片手ん坊〉の異名を得た。75年退役して帰国の途中,トルコの海賊に捕らえられ,アルジェで5年間の捕虜生活を送る。…

【地中海】より

…16世紀には東でオスマン帝国が勢力を拡大し,西ではレコンキスタ(国土回復戦争)を達成したスペインがイタリアをおさえ,これに対抗した。レパントの海戦(1571)が両者の対決の頂点であった。 16世紀後半から17世紀にかけて食糧危機と人口圧力の増大,木材資源の枯渇などによって地中海諸地域の経済的地盤は全体として沈下した。…

【フアン・デ・アウストリア】より

…この年の末,グラナダの山岳部でモリスコが激しい反乱を起こし,フアンはこれを3年後に平定して最初の武功を挙げた。次いで71年の秋,ベネチア,スペイン,ローマ教皇庁などの艦船からなる連合艦隊を率いてレパントの海戦でトルコ艦隊を撃破した。76年,フェリペ2世の命令でフランドルに赴き,悪化する一方の事態を交渉によって収拾しようと試みたが,これを果たす前にチフスにかかって死去した。…

※「レパントの海戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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