日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランケン」の意味・わかりやすい解説
フランケン
ふらんけん
Franken
ドイツ中部の地方名。マイン川中・上流域の地方をさし、東はチェコ国境、西はライン川に達する。民族移動期には、チューリンゲン人とアラマン(アレマンネン)人の抗争の地であったが、6世紀ごろ西方からフランク人が進出・定着して、720年ごろフランク王国に編入された。8世紀以来、東フランクFrancia Orientalisの呼称が用いられている。カロリング王朝断絶(911)ののち、ここにフランケン公国がつくられ、コンラディナー家が公位を得たが、一時的なもので、オットー1世は939年これを解体し、東フランケンとライン・フランケンに分けた。
前者ではウュルツブルク司教が大部の領地を領有して圧倒的優勢を誇り、1168年皇帝フリードリヒ1世は同司教にフランケン公の称号を贈った(1802年まで存続)。後者ライン・フランケン地方を領有したザリエル家は、1024年コンラート2世のとき国王となり、ザリエル朝(またはフランコニア朝)は1世紀間存続した。しかし、その断絶後、家領は四分五裂し、中小貴族の台頭を促した。すなわち、アンスバッハ、バイロイト各辺境伯、カステル、ヘンネベルク、ホーエンローエ、ライネック、ウェルトハイム各伯領をはじめとして、無数の帝国騎士、帝国直属村落が乱立し、これにウュルツブルク、バンベルク、アイヒシュテット各司教、フルダ修道院、ニュルンベルク市、ローテンブルク市などが加わる。
1500年皇帝マクシミリアン1世は、帝国改革の一環として全国土を10地区に編成したとき、前記の諸領主をフランケン地区として包括し、ここに文化的・社会的共通意識が醸成されることになった。1815年のウィーン条約の結果、フランケンの大部分はバイエルン公国に帰し、今日、バイエルン州の北部部分をなしている。農耕、家畜飼育が盛んで、とくに美味なぶどう酒を産出する。工業では織布、製陶が目だつ程度。多くの文化財に恵まれ、清澄な自然環境と相まって、有数の観光地域となっている。
[瀬原義生]