近代地理学においては,ある地域の特殊研究のモノグラフを地誌とし,地誌学の発達をみたが,広義の地誌はある地域の地理的現象,風俗,習慣などを記した書であり,その歴史は古い。地誌は人類が残した歴史的記録であり,今日のわれわれが諸地域,諸民族の歴史をたぐるとき,貴重な情報を与えてくれる。地誌を最も意識的にかつ体系だてて記録してきたのは中国であるが,独自な展開をみせたそれらは地方志と概称される。〈地方志〉の項目に詳説されているので参照されたい。本項では中国以外のヨーロッパ,中東,日本,朝鮮の地誌を対象とする。
ヨーロッパにおける最も早い地誌は,前6世紀後半から前5世紀初めに活躍した,ギリシアの歴史家ヘカタイオスの《世界めぐりPeriodos ges》である。みずからも広く旅行したヘカタイオスが,各種の情報をもとにペルシア,エジプトの地理,風俗,習慣などを記したものである。ついで数学的地理学者として知られるギリシアのエラトステネスは地理書を著し,古代ギリシアの地誌を総合したといわれるが,彼の地理書は世界図とともに現存しない。ローマ時代には注目すべき地誌が現れ,その代表が前1世紀のストラボンの《地理書》である。全17巻のうち第3巻以下は地誌にあてられ,アクグストゥス帝治下のローマ帝国の世界がほぼ記述される。とりわけ小アジアの部分は彼自身が実際に見て記述したところで,最も貴重な地誌記録である。1世紀の大プリニウスの《博物誌》は当時の諸記録を編纂した百科事典であるが,諸地域の地理,民俗の記述を含む。既知の世界の図表化に意を注いだプトレマイオスも《地理学入門》を著し,ギリシア・ローマ時代の古代地理学を集大成し,地図作成法の記述に加えて地誌記録も残した。
ところで,こういった記述的な地理書のほか,歴史書にも地誌は記録され,各地域の風俗,習慣を知るうえで貴重である。歴史の父ヘロドトスの《歴史》は,ギリシアとペルシアとの抗争を主題としたものであるが,彼みずから足跡を残したアフリカ北岸,エジプト,フェニキア,バビロンをはじめとして諸地域の風土,習俗の地誌が織りこまれた豊かな歴史叙述の書として知られる。さらにローマ時代には,ガリア,ブリタニア,ゲルマニアの事情を記し,地誌的記録に富むカエサルの遠征記録《ガリア戦記》がある。またタキトゥスの《ゲルマニア》は,写本によっては《ゲルマニアの起源,土地,習俗およびその民族について》という表題をもつものもあるように,ゲルマン諸部族の居住する地域の地理,民俗を知りうる書である。しかしヨーロッパに古くおこった科学的地図学がやがて宗教的宇宙誌にその位置をゆずったのと軌を一にして,ヨーロッパの地誌は〈ヨーロッパ人の学識が低下した3~13世紀の空白時代〉(J. ニーダム)を迎えた。この空白の時代はルネサンスによって終焉し,スウェーデンのオラウス・マグヌスの《北欧民族史》(1555),W.キャムデンの《ブリタニア》(1586)などの精細な地誌が生まれ,やがてヨーロッパの近代地理学の誕生につながっていった。
なお,人類の諸地域の歴史,社会,生活を知るには,地誌そのものの記述を目的としたもの以外に上述のような歴史書,そして各探検記,航海記,旅行記などが,われわれに豊かな知識を与えてくれる。
執筆者:吉田 典夫
中東の地誌の記述は,イスラム時代になってから急速に発達した。イスラムの地理学がギリシア文化の伝統を継承するものであったのに対して,地誌はイスラム世界に固有の学問領域として展開する。征服地に軍営都市(ミスル)を建設したアラブは,そこに区画割りをして部族や人種別の居住区(ヒタトkhiṭaṭ)としたが,この居住区を中心とする都市の発展の歴史を記すことから,地誌(ヒタト)の記述様式が生まれた。9世紀のイブン・アブド・アルハカムは《エジプト,マグリブ征服史》の中で,エジプトの魅力(ファダーイル)とカイロ南郊の旧都フスタートの発展ぶりを書き記し,イブン・ファキーフ(9世紀)はバグダードについてその地理的環境と巨大な町並みの様子を詳しく伝えている。その伝統はバフシャルBaḥshal(?-905)の《ワーシトの歴史》やハティーブ・アルバグダーディーal-Khaṭīb al-Baghdādī(1002-71)の《バグダード史》へと受け継がれたが,これらがいずれも人物誌中心の地誌であったのに対して,キンディーal-Kindī(897-961)はエジプトを対象にはじめて地誌の専門書を著した。続いてイブン・ズーラークIbn Zūlāq(919-997)が《エジプト誌》を書き,ナハウィーNaḥawī(?-1126)も新都カイロを中心にエジプトの地誌を著したが,これらは現在いずれも散逸して伝わらない。マクリージー(1364ころ-1442)は《地誌》と題する大著によってエジプトに伝わるヒタトの伝統を集大成し,地誌と歴史と伝記を総合する記述様式を確立した。この点で,道程記を中心に町や村の地理的環境や特産物などを記す旧来の地理書とはその性格を異にしている。その後に書かれたエジプト誌はいずれもマクリージーの著作の要約にすぎなかったが,19世紀に入ると,アリー・ムバーラクが《新編地誌》を著してエジプトにおける地誌の伝統をみごとに復活させた。この著作は他のアラブ諸国にも影響を与え,バラーキーBarāqī(1914没)が《クーファの歴史》を著したのに続いて,クルド・アリーKurd Alī(1953没)は1925年に《シリア誌》を公刊した。イランでも地誌を記述する古い伝統があり,イブン・バルヒーIbn Barkhī(12世紀初め没)の《ファールスの書》やアフマド・カーティブAḥmad Kātib(15世紀)の《新ヤズド史》などの地方史では,地誌が重要な位置を占め,今日に至っている。
執筆者:佐藤 次高
日本の地誌は713年(和銅6)元明天皇の詔により諸国に命じ郡郷名・地名の由来,産物,土地の肥瘠(ひせき),古老伝承などを録して進上させた〈風土記〉を最初とする。《出雲国風土記》が完本として,ほかに播磨国,常陸国,豊後国,肥前国の〈風土記〉の一部が現存する。ほかに《延喜式》《和名類聚抄》にも国郡名や諸国の地理資料が記される。中世は地誌が少なく,《東関紀行》《十六夜(いざよい)日記》などの紀行文以外は《拾芥抄(しゆうがいしよう)》《峯相記(みねあいき)》ぐらいであろう。
近世に至り本格的地誌が出現した。編纂の主体からすれば幕府・藩の官撰と私撰とがあるが,幕藩制の確立期にはまず藩撰の領国地誌が成立した。1661年(寛文1)会津藩主保科正之は家老友松氏興を奉行として《会津風土記》(《新編会津風土記》)を編纂し,寛文年間(1661-73)に完成した。水戸藩の《古今類聚常陸国誌》,磐城平(いわきたいら)藩の《磐城風土記》,貞享年間(1684-88)には古市剛撰《前橋風土記》が成立,これらは漢文で部門別に編成,中国の《大明一統志》を模範とした儒学的色彩の濃い地誌である。私撰の地誌はこれらより古く,林羅山《本朝地理志略》(1643),黒沢石斎《懐橘談》,黒川道祐《芸備国郡志》《雍州府志》などがあるが,武士,学者が編したもので準官撰の地誌といえる。このような地誌は元禄(1688-1704)ごろから数を増し,仮名交り文が多くなった。地誌編纂の時代的背景は,領国支配体制確立のため領内の沿革,地勢,戸口,産物,寺社,民俗を把握する必要があったからで,幕府による1644年(正保1)の国絵図,郷帳の作成,97年その改訂,1664年,65年の寛文印知が契機になったと思われる。
以上の基本的な地誌と並んで,名所案内記や紀行文など広い意味での通俗地誌が挿絵を加えるなどして現れ,出版により普及した。1635年(寛永12)刊の徳永種久《しきおんろん(色音論)》を最初に中川喜雲《京童》《鎌倉物語》,浅井了意《東海道名所記》《江戸名所記》《武蔵鐙(むさしあぶみ)》《京雀》,一無軒道冶《蘆分船》《難波鑑(なにわかがみ)》,菱川師宣《江戸雀》や,《新編鎌倉志》《江戸鹿子》などができ,享保(1716-36)以降は仮名草子的性格を脱した菊岡沾凉(せんりよう)《江戸砂子》,斎藤幸雄《江戸名所図会》を最高峰とする秋里籬島(りとう)《都名所図会》(1780)以来の名所図会類,鈴木牧之《北越雪譜》,紀行文としての古河古松軒《東遊雑記》,大田南畝《調布日記》などがある。
幕府官撰の地誌は後期に下り,大学頭林述斎の建議により,彼が総裁となって昌平坂学問所に地誌編修取調所を置き,地誌を収集して《編修地誌備用典籍解題》を作成し,間宮士信(ことのぶ)ら40人が武蔵国各郡を分担して1810年(文化7)起稿,28年(文政11)完成し,《新編武蔵風土記稿》として30年幕府に献上した。これから江戸府内をはずし別に《御府内風土記》を編纂したが焼失し,収集資料を整理して《御府内備考》として出版した。ついで《新編相模国風土記》編纂の命があり,41年(天保12)献呈した(《新編相模国風土記稿》)。その後,伊豆国を計画したが述斎の死で実施に至らなかった。述斎は正統な国誌編纂の準備として行ったのであり,1国単位の地誌編纂は領国地誌を超え,全国支配者としての権力を誇示せんとするものであった。《新編武蔵風土記稿》編纂にあたり村明細帳的項目の調査がなされたが,この種類の典型として郷村からの書上を集成した長州藩の《防長風土注進案》がある。
近代では1872年(明治5)正院に地誌課を置き,《皇国地誌》撰修のため全国から地誌未刊稿本を徴集したが,翌年皇居火災で原本は焼失した。77年官撰地誌《日本地誌提要》が撰進されたが内容は貧弱であった。地誌事業は内務省地理局に受け継がれたが,86年《安房国誌》の公刊にとどまる。これに対し民間では村岡良弼(よしすけ)《日本地理志料》,吉田東伍《大日本地名辞書》が刊行され,また府県誌,郡誌などに地誌編纂が受け継がれている。
執筆者:大野 瑞男
朝鮮の地誌には,新羅末期の道詵(どうせん)に始まる風水地理説に基づくものや,政府・郡県が統治資料として編纂したものなどがある。前者は都市立地,居住地,墓地などの選定に利用されて自然地理学の発展に寄与したが,しだいに迷信化した。後者は15世紀から盛んに編纂され,《新編八道地理志》や《世宗実録》地理志,それらの原資料《慶尚道地理志》など,人文・自然・歴史地理学の要素を備えていて,《東国輿地勝覧》を増補した《新増東国輿地勝覧》(1530)で形式が完成した。これを踏襲し,各郡県が幾度も《邑誌》を編纂した。地方史料が少ない李朝史研究にとって,各郡県の実情を反映する《邑誌》は単に地理資料としてだけでなく,地方の政治,経済,社会,文化の様相を伝える史料として高い価値をもつ。風水地理書や官撰地誌の限界をのりこえた科学的な地誌は,実学派の李重煥の《択里志》(1714)に始まり,《大東輿地図》を作った金正浩の《大東地志》(1850)で一応の完成をみた。
執筆者:吉田 光男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
地理学は場所的関係を基本とした、世界の諸地域に関する科学であるが、これを、それぞれの事象ごとに分析的に取り扱う一般地理学と、地域に即して総合的に取り扱う地誌あるいは地誌学の二大部門に区分される。ギリシア・ローマ時代の古代地理学においても、前者を代表するものとしてはプトレマイオスの地理書があり、後者を代表するものはストラボンの地理書である。ストラボンの地理書は、当時、ヨーロッパ人に知られていた世界の諸地域について、歴史や風俗・習慣までも含めて記述されている。わが国でも古くは奈良時代の風土記(ふどき)に始まり、江戸時代には諸藩によって多くの地誌書が編纂(へんさん)された。しかし近代地理学としての地誌学は19世紀に比較地理学を提唱したドイツのリッターに始まり、フランスのドマンジョンやドイツのヘットナーなどによって体系化された。フランスではドゥ・ラ・ブラーシュ、ドイツではクルーテ編纂の膨大な世界地誌書などが刊行されている。現在の地誌学が近代以前の地誌と根本的に異なるのは、地域をもって、そこに分布する自然・人文の諸現象が因果関係によって相互に関連する統一体であるとみなし、それを総合的に把握して、地域性を究明することを目的としているところにある。
[織田武雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…個人によるものにも《駿国雑志》《斐太後風土記》《雍州府志(ようしゆうふし)》《豊前志》などがある。地誌的要素が強いが,なかには古文書を記載しているものもあれば,習俗,方言を採録しているものもある。特定の地域を対象にしたものでは,《御府内備考》や《日光山志》など数多く著されている。…
※「地誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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