ドイツの哲学者,教育学者。オルデンブルクの名家に生まれ,ギムナジウム時代に早くも学問上の天分をあらわした。イェーナ大学ではとくにフィヒテの影響を受け,1797年大学を卒業すると2年半ほどスイスのシュタイガー家の家庭教師をつとめたが,そのときの教育経験は後の教育学理論形成の基礎となった。この間,ブルクドルフにペスタロッチを訪ね,触発された。1802年に26歳でゲッティンゲン大学の講師となり,06年には教育学上の主著《一般教育学》を公刊した。09年より24年間は,かつてカントが占めていたケーニヒスベルク大学の名誉ある哲学講座の教授として研究と教育に専念した。この時期で教育史上特筆すべきは,彼が学生に教育の実際を学ばせるための付属実習学校を大学に付設したことである。33年にゲッティンゲン大学に戻り,哲学部長となったが,在任中の37年に同大学の教授たちが反動的な政府の憲法破棄に抗議して免職になるという七教授事件が起こった。その際に彼らの罷免を容認した政治的姿勢に彼の思想性があらわれているとされる。
ヘルバルトの学問上の最大の功績は,従来の教育論や教育思想という水準にとどまっていた教育研究を学的体系としての教育学にまで高めようと企てた点にある。体系的教育学の創始者と称されるゆえんである。彼は教育学を実践哲学(倫理学)と心理学によって基礎づけ,前者から教育の目的を,後者からその方法を導き出した。教育の目的は彼によれば道徳的品性の陶冶と多面的興味の喚起である。彼は感情や意志などの精神生活がすべて〈表象(対象についての感覚)〉に基づくものであるとして人間の精神発達の内的構造を追求し,認識の段階を,明瞭,連合,系統,方法の四つに分けた。この心理学上の理論から彼の教授段階説も導き出された。すなわち,第1に学習内容を明瞭に把握させるために各教材を他と区別し,第2に新しく獲得された観念が既有の観念に結びつくように配慮し,第3に一般的観念の発展とその系統化をはかり,最後に習得した観念が実践を通じて生徒の日常生活に応用されるようにするというものである。また彼は教育作用を管理,教授,訓育の3部門に分けたが,教育の究極の目的は訓育であり,管理と教授はそのための手段であるとした。そして単に教授一般というものはなく,教育するところの教授,つまり〈教育的教授〉だけが真の教授であると唱えた。
彼の学説はツィラーT.ZillerやラインW.Reinらを代表とするヘルバルト学派の人々によって継承され,ドイツにおける国家公認の教授理論として定着していくが,その過程で五段教授法(予備,提示,比較,総括,応用)に象徴される形式化が進行した。この学派の理論的業績としては〈中心統合法〉や〈開化史的発展段階説〉などが知られているが,これらの学説は19世紀末にアメリカに導入され大きな影響を及ぼした。日本には1887年に来日したハウスクネヒトによって伝えられ,帝国大学における彼の教え子たちがその導入と普及に尽力した。実際の教育現場においても五段教授法を中心に公教育の教授定型として支配的なものとなったが,大正期に入りその主知主義や形式性が批判されるにいたった。第2次大戦後は,ドイツでも日本でも,ヘルバルト学派と区別してヘルバルト自身の理論的遺産を再検討すべきだという研究動向があらわれてきている。
執筆者:平野 正久
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ドイツの哲学者、教育学者。オルデンブルクに生まれ、家庭教師ユルツェルの教育下に幼少時より哲学への関心を抱く。クルーゼの私塾で自然科学を学び(1785~1786)、ギムナジウム在学中に人間の意志の自由に関する論文を書き(1790)、卒業生代表として「国家において道徳の向上と堕落を招来する一般的原因について」の演説を行う(1793)など、早くから非凡さを発揮した。イエナ大学で法律を学び、そこでフィヒテの哲学に影響を受ける一方、ゲーテ、シラー、ヘルダーの住むワイマールを訪れては芸術的素養を身につけた。卒業後3年間ベルンのシュタイゲル家の家庭教師となったが、グルンドルフにペスタロッチを訪ねたこと(1799)とともに、これが教育学への決定的関心を促した。ゲッティンゲン大学で教育学、倫理学、哲学を講じ(1802~1809)、主著『一般教育学』(1806)、『一般実践哲学』(1807)を著す。ケーニヒスベルク大学に招かれて名誉あるカントの講座を継承し(1809)、『心理学教本』(1816)、『哲学綱要』(1831)を著す一方、教育セミナーや実験学校を付設して教育実践面にも活躍した。ふたたびゲッティンゲン大学に招かれ(1833~1837)、教育学体系を基礎づけた『教育学講義綱要』(1835)を著し、教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求めて多面的興味の喚起を唱えた。ツィラーTuiskon Ziller(1817―1882)によって5段階に発展させられた教授法とともに明治20年代、日本に紹介され、谷本富(たにもととめり)(1867~1946)を中心として大きな影響を及ぼした。
[増渕幸男 2015年4月17日]
『『一般教育学』(三枝孝弘訳・1960・明治図書出版/是常正美訳・1968・玉川大学出版部)』▽『ヘルバルト著、高久清吉訳『世界の美的表現』(1972・明治図書出版)』
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…こうして,日本にも影響をあたえるドイツの思弁的教育学が発足する。その一つの頂点がJ.F.ヘルバルトの《一般教育学》(1806)である。彼は,教育の目的は倫理学によって,方法は心理学によって導かれるとした。…
…今後独立科学としての理論と方法はさらに洗練されていくと思われるが,一般心理学の成果の中には,これを創造的に適用するならば人間の諸能力と人格の形成という教育の営みの発展に寄与しうるものが多面的に含まれているので,これを適切に摂取することも不可欠である。
[歴史]
最初に教育心理学の成立の可能性と必要性を暗示したのはドイツの哲学者J.F.ヘルバルトであるといえよう。彼はJ.H.ペスタロッチの影響下で《一般教育学》(1806)を著すなどして教育学の体系化を試み,教育の目的は倫理学に,教育の方法は心理学にそれぞれ求めるという考え方を示した。…
…さらにその人格発達論と退行理論にはC.ダーウィンの進化論の裏打ちがある。またJ.F.ヘルバルトの自然科学的・機械論的見地に立つ心理学とフロイト心理学の類似性もしばしば説かれている。
【応用としての精神分析】
これはフロイトの定義の(3)に属するであろう。…
… 一と多との対立はピタゴラス学派,クセノファネス,パルメニデスとヘラクレイトスとの対立に起源するが,多元論者の代表は哲学史上,古代では,世界を構成する地・水・火・空気の四根rizōmataの愛・憎による結合・分離を説くエンペドクレス,無数の種子spermataを精神nousが支配して濃淡・湿乾などが生じ世界を成すとするアナクサゴラス,形・大きさ・位置のみ差のある不生不滅で限りなく多数の原子atomaが,空虚kenonの中で機械的に運動して世界が生じるとするデモクリトス,さらにはエピクロスなどを挙げることができる。近世では,表象能力と欲求能力とを備えて無意識的な状態から明確な統覚を有する状態まで無数の段階を成すモナドを説くライプニッツ,近代ではその影響下にあって経験の根底に多数の実在を認め心もその一つとするJ.F.ヘルバルト,真の現実界は物質界を現象として意識する自由で個体的な多数の精神的単子から成ると説くH.ロッツェなどである。さらにまたW.ジェームズは自己の根本的経験論は多元論であり,世界はどの有限な要素も相互に中間項によって連続せしめられており,隣接項とともに一体を成しているが,全面的な〈一者性oneness〉は決して絶対的に完全には得られぬとして,多元論の立場から多元的宇宙を説き,一元論的な絶対的観念論の完結した全体的な宇宙観を退けた。…
…ヘルバルト学派の教育学を日本に伝えたドイツ人教育家。ブランデンブルクに生まれ,ベルリンのギムナジウムの外国語教師をしていたが,1887年招聘されて来日し,90年まで東京の帝国大学文科大学で,当時,有能な教員を育成するために設けられた教育学科の特約生に対してヘルバルト学派(J.F.ヘルバルト)の教育学を講義した。…
※「ヘルバルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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