デジタル大辞泉
「メッケル」の意味・読み・例文・類語
メッケル(Klemens Wilhelm Jakob Meckel)
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
メッケル
- ( Klemens Wilhelm Jakob Meckel クレメンス=ビルヘルム=ヤーコプ━ ) ドイツの軍人・軍事評論家。明治一八年(一八八五)、陸軍大学校教官に招聘されて来日、日本陸軍の近代的編制や戦略戦術の向上に貢献。(一八四二‐一九〇六)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
メッケル
ドイツの軍人。プロイセンの陸軍大学を経て参謀となり,普仏戦争(1870年−1871年)に従軍。《未来の歩兵戦》《戦術学》《帥兵術》などを書き,戦術家として知られた。少佐のときの1885年3月,プロイセン陸軍参謀総長モルトケの推薦で陸軍大学校御雇教師として来日,創立まもない陸軍大学校でドイツ式の戦術を教え,参謀教育を行い,参謀本部顧問も務めた。参謀次長川上操六,陸軍大学校長児玉源太郎,陸軍次官桂太郎らを助け,陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に改めた。日本陸軍建設に大きく貢献し,1888年3月帰国。帰国後は参謀本部課長や陸軍大学教官を務め,1894年大将および幕僚長になった。日清・日露戦争時の参謀将校の多くはメッケルの教え子である。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
メッケル
没年:1906.7.5(1906.7.5)
生年:1842.3.28
ドイツの陸軍軍人。モルトケ元帥の推薦により明治18(1885)年日本陸軍大学校(1883年開校)の教師として来日。ドイツ式軍事訓練はすでに慶応3(1867)年紀州(和歌山)藩がカッペンから受けていたが,明治政府の陸軍はフランス式だった。明治16年ドイツ式を採用することとし,陸軍卿大山巌 が桂太郎大佐と共にドイツに渡り,普仏戦争で勲功をたてたメッケル参謀少佐を月俸500ドルで迎えた。彼は3年間,高等兵学の軍制学,戦略戦術を講じ,陸軍の最高顧問として陸軍大学校長児玉源太郎らに助言をした。学識経験に富み,学生達を懇切に指導した。先制を説き,緒戦に勝たねばならぬと教え,精鋭なる軍の最大要素は軍人精神だとする持論を説き,陸軍に大きな影響を与えた。教え子達の多くは日清・日露両戦争で参謀将校を務め,陸軍の戦勝は,メッケルに負うと高く評価された。彼を招いたことは,フランスの反感を買ったが,陸軍がドイツ化を徹底する促進剤となった。明治21年に帰国。のちメッツ連隊長,参謀次長。同37(1904)年,日本政府は勲1等瑞宝章を贈った。<参考文献>中村赴『新説明治陸軍史』,高橋邦太郎『お雇い外国人(軍事)』,宿利重一『日本陸軍史研究メッケル少佐』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
メッケル
Klemens Wilhelm Jakob Meckel
生没年:1842-1906
ドイツ軍人。日本陸軍のドイツ式への兵制改革の指導者。プロイセンの陸軍大学を経て参謀となり,《未来の歩兵戦》《戦術学》《帥兵術》などの著書で戦術家として知られた。少佐のとき日本陸軍に招かれ,1885年3月来日して陸軍大学校御雇教師となり,3年間の滞在中に創立早々の陸軍大学校でドイツ式の戦術を教え,参謀教育を行った。また参謀本部の顧問として,参謀次長川上操六,陸軍大学校長児玉源太郎,陸軍次官桂太郎などを援助し,陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に改革するために尽力した。日清・日露戦争時の参謀将校の多くはその教え子であり,日本陸軍の編制や戦略戦術に大きな影響を与えた。88年3月に離日し,帰国後は少将に進んで退役した。日本陸軍育成の功績を記念して,1912年7月陸軍大学校構内にその胸像が建てられた。
執筆者:藤原 彰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
メッケル
めっける
Klemens Wilhelm Jakob Meckel
(1842―1906)
ドイツ軍人。3月28日ケルンに生まれる。プロイセンの陸軍大学を出て参謀将校となり、『未来の歩兵戦』『戦術学』『帥兵術』などの著書により戦術家として知られた。1885年(明治18)少佐のとき日本陸軍の軍制改革の指導のために招かれ、陸軍大学校御雇(おやとい)教師、参謀本部顧問として来日し、1888年に帰国。この間、陸大で戦略戦術の教師として長岡外史(ながおかがいし)(1858―1933)、藤井茂太(ふじいしげた)(1860―1945)など多くの参謀将校を養成するとともに、桂太郎(かつらたろう)や児玉源太郎(こだまげんたろう)が進めている近代的な軍備の確立のための改革に顧問として大きな役割を果たした。日本陸軍がプロイセン陸軍の影響を受けるうえで重要な地位を占めている。帰国後は少将に進んで退役。1906年7月5日死去。
[藤原 彰 2018年8月21日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
メッケル
Meckel, Klemens Wilhelm Jacob
[生]1842.3.28. ケルン
[没]1906.7.5. ベルリン郊外グロスリヒテルフェルデ
ドイツの陸軍軍人。大モルトケのもとで養成され,1883年日本陸軍がドイツの兵制を採用した際,モルトケ参謀総長の推薦で,85年陸軍大学校教官として来日。当時は参謀少佐。陸軍兵術,師団編制を中心とする陸軍の編制,高等司令機関の完備,一般兵役義務制度の確立など,あらゆる分野において日本陸軍の近代化を実現させ,その後の日清・日露戦争のための基礎を築いたばかりでなく,第2次世界大戦終戦まで日本陸軍の兵術思想に大きな影響を及ぼした。 88年帰国し,メッソ連隊長,陸軍大学校教官,参謀次長をつとめ,少将で予備役に入った。
メッケル
Meckel, Christoph
[生]1935.6.12. ベルリン
ドイツの詩人,版画家。シュルレアリスム的な詩集『夢遊病者用のホテル』 Hotel für Schlafwandler (1958) のほか,版画集『戦争』 Der Krieg (60) ,『都市』 Die Stadt (60) ,小説『死者のマニフェスト』 Manifest der Toten (71) など。また自伝的散文作品『判じ絵-わが父について』 Suchbild.Über meinen Vater (80) は,詩人,小説家であった Eberhard Meckel (1907~69) について描いている。 1979年ライナー・マリア・リルケ抒情詩賞,82年ザルツブルク市ゲオルグ・トラークル賞受賞。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
メッケル Meckel, Klemens Wilhelm Jacob
1842-1906 ドイツの軍人。
1842年3月28日生まれ。明治18年(1885)陸軍少佐のとき政府にまねかれて来日。陸軍大学校教官,参謀本部顧問となり,陸軍の軍制をフランス式からドイツ式に改革し,参謀将校を養成した。21年帰国,のち少将。日清(にっしん)・日露戦争の勝利により,日本陸軍の恩人として遇された。1906年7月5日死去。64歳。ケルン出身。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
メッケル
Klemens Wilhelm Jakob Meckel
1842.3.28~1906.7.5
ドイツの軍人。プロイセン陸軍大学校卒。日本陸軍のドイツ・モデル採用決定にともない,1884年(明治17)陸軍卿大山巌(いわお)が渡独してドイツ士官の招聘を要請,モルトケ参謀総長の推薦により翌年来日。参謀本部顧問・陸軍大学校教官として教育や建策,戦術指導を行い,創設期陸軍に多大な影響を与えた。88年契約満期により帰国。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のメッケルの言及
【監軍】より
…本部長はなく,東・中・西各部の3監軍部長(谷干城,野津鎮雄,三浦梧楼の各中将)が合議で部内を統轄した。85年5月18日監軍部と改称されたが,軍事費節減と戦時の軍団編成を機械的にする制度に反対する参謀本部顧問メッケルの献策により,86年7月に廃止された。(2)陸軍の教育機関。…
【ドイツ】より
…プロイセン・ドイツがナポレオン3世のフランスを一方的に破ったこともあって,79年帰国した桂は,陸軍の兵制をドイツ型に切り替えていくことになった。85年には,ドイツから[メッケル]が来日し,陸軍省・参謀本部・教育総監部の3部門制の確立など陸軍制度の方針に大きな影響力を及ぼした。このほかドイツの文化は,文学,教育,学術,美術,音楽などさまざまな面で近代日本に影響を与えた。…
※「メッケル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」