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ドイツ軍人。日本陸軍のドイツ式への兵制改革の指導者。プロイセンの陸軍大学を経て参謀となり,《未来の歩兵戦》《戦術学》《帥兵術》などの著書で戦術家として知られた。少佐のとき日本陸軍に招かれ,1885年3月来日して陸軍大学校御雇教師となり,3年間の滞在中に創立早々の陸軍大学校でドイツ式の戦術を教え,参謀教育を行った。また参謀本部の顧問として,参謀次長川上操六,陸軍大学校長児玉源太郎,陸軍次官桂太郎などを援助し,陸軍の兵制をフランス式からドイツ式に改革するために尽力した。日清・日露戦争時の参謀将校の多くはその教え子であり,日本陸軍の編制や戦略戦術に大きな影響を与えた。88年3月に離日し,帰国後は少将に進んで退役した。日本陸軍育成の功績を記念して,1912年7月陸軍大学校構内にその胸像が建てられた。
執筆者:藤原 彰
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ドイツ軍人。3月28日ケルンに生まれる。プロイセンの陸軍大学を出て参謀将校となり、『未来の歩兵戦』『戦術学』『帥兵術』などの著書により戦術家として知られた。1885年(明治18)少佐のとき日本陸軍の軍制改革の指導のために招かれ、陸軍大学校御雇(おやとい)教師、参謀本部顧問として来日し、1888年に帰国。この間、陸大で戦略戦術の教師として長岡外史(ながおかがいし)(1858―1933)、藤井茂太(ふじいしげた)(1860―1945)など多くの参謀将校を養成するとともに、桂太郎(かつらたろう)や児玉源太郎(こだまげんたろう)が進めている近代的な軍備の確立のための改革に顧問として大きな役割を果たした。日本陸軍がプロイセン陸軍の影響を受けるうえで重要な地位を占めている。帰国後は少将に進んで退役。1906年7月5日死去。
[藤原 彰 2018年8月21日]
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1842.3.28~1906.7.5
ドイツの軍人。プロイセン陸軍大学校卒。日本陸軍のドイツ・モデル採用決定にともない,1884年(明治17)陸軍卿大山巌(いわお)が渡独してドイツ士官の招聘を要請,モルトケ参謀総長の推薦により翌年来日。参謀本部顧問・陸軍大学校教官として教育や建策,戦術指導を行い,創設期陸軍に多大な影響を与えた。88年契約満期により帰国。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…本部長はなく,東・中・西各部の3監軍部長(谷干城,野津鎮雄,三浦梧楼の各中将)が合議で部内を統轄した。85年5月18日監軍部と改称されたが,軍事費節減と戦時の軍団編成を機械的にする制度に反対する参謀本部顧問メッケルの献策により,86年7月に廃止された。(2)陸軍の教育機関。…
…プロイセン・ドイツがナポレオン3世のフランスを一方的に破ったこともあって,79年帰国した桂は,陸軍の兵制をドイツ型に切り替えていくことになった。85年には,ドイツからメッケルが来日し,陸軍省・参謀本部・教育総監部の3部門制の確立など陸軍制度の方針に大きな影響力を及ぼした。このほかドイツの文化は,文学,教育,学術,美術,音楽などさまざまな面で近代日本に影響を与えた。…
※「メッケル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
二十四節気の一つ。元来,太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間で...
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