ドイツの詩人。ライン左岸の町ビンゲン近くのビューデスハイムBüdesheimの生れ。生家は豊かなワイン商。父方はロートリンゲン,母方はビンゲン付近の出で,ゲオルゲ自身はフランスの血を強く意識した。カトリックの信仰厚い無口な母親に似ていた。少年の頃すでに孤高の風があり,語学の才に恵まれロマンス語風の秘密語を作って表現の孤城を築こうとした。ギムナジウム卒業後ヨーロッパ各地を旅行。パリでマラルメに会い,大地を神秘的に解くことを詩人の天職とする考えと,言語表現が純粋美の法則に従う実例とに触れ,長く消えない影響を受けた。1892年創刊の雑誌《芸術草紙》はパリ体験の成果のひとつであり,彼を指導者とするゲオルゲ派の基盤となった。作品集は初版刊行のとき,ほとんどが私家版であった。詩編の特徴は連作形式,独自の活字と句読点,名詞の頭に小文字を用いる。初期は伝説に取材した《アルガバル》(1892),《架空庭園の書》(1895)等。中期は自然に彩られる《魂の一年》(1897),《生のじゅうたん》(1900)。ゲオルゲがギリシア的人間理想の肉化を見た,若年の詩人マクシミーンとの交友と彼の早死の衝撃から生まれた3詩集,《第七輪》(1907),《盟約の星》(1913),《新しい国》(1928)がある。これらの作品の主要部は一貫して連作形式で,ゲオルゲの詩魂の働く様態を映している。翻訳家としても優れ一家言を持ち,ボードレール,ダンテ,シェークスピア等の訳を〈作り変え〉と称した。
執筆者:助広 剛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの詩人。ライン河畔のぶどう酒販売業者を父に、ビンゲン郊外に生まれる。1888年ダルムシュタットのギムナジウム卒業直後から全ヨーロッパを遊歴、生涯定住の地をもたなかった。1933年ナチス・ドイツを去りスイスに移住、ロカルノ近郊で死去。詩業の開始は少数グループによる高踏的機関誌『芸術草紙』の創設であった。自然主義文学に強力に抗議し、厳格な節度と紀律に基づく形式意志を貫いた叙情詩によって時代の空虚さに対抗し、美と神秘の王国の建設を目ざした。ここには、古代ギリシア再生を願望したヘルダーリンの精神的ゲルマニアの形姿、ニーチェの英雄的貴族的な生の感情、フランス象徴派詩人の芸術観とイギリス・ラファエル前派の美の信仰が故郷のローマ的ドイツ的伝統と一体となって息づいている。彼を中心とする結社をゲオルゲ・クライスという。主要作品に『魂の一年』(1897)、『生の絨氈(じゅうたん)』(1900)、『第七輪(だいしちりん)』(1907)、『新しい国』(1928)などの詩集と、ダンテ、ボードレール、シェークスピアらの翻訳がある。1976年にビンゲンのシュテファン・ゲオルゲ・ギムナジウムにゲオルゲ記念文庫が開設された。
[林 秀之]
『手塚富雄訳・編『ゲオルゲ詩集』(岩波文庫)』▽『『ゲオルゲとリルケの研究』(『手塚富雄著作集3・4』所収・1981・中央公論社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…本名は,F.Leopold Gundelfinger。当時のドイツ文学の自然主義的傾向や,社会の実証主義的風潮に抗して,純粋な言語芸術としての文学を標榜したゲオルゲ派に属した。1920年にハイデルベルク大学の文学史の教授となり,ゲオルゲ派の歴史・芸術理論に基づく精神史的労作を次々に発表した。…
… また近代文学の大家たちの男色傾倒は壮観というほかない。プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。…
※「ゲオルゲ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新