ヒンデミット

デジタル大辞泉 「ヒンデミット」の意味・読み・例文・類語

ヒンデミット(Paul Hindemith)

[1895~1963]ドイツの作曲家。無調性対位法などの手法により、後期ロマン派から脱却した作風を開いた。また、やさしい実用音楽を主張。交響曲画家マティス」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ヒンデミット」の意味・読み・例文・類語

ヒンデミット

  1. ( Paul Hindemith パウル━ ) ドイツの作曲家。初めバイオリンやビオラ奏者をつとめ、第一次大戦後作曲家となり、フランスオネゲル、ミヨーらとともに現代音楽を代表する存在となった。第二次大戦後は指揮者としても活躍。代表作に交響曲「画家マチス」がある。(一八九五‐一九六三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ヒンデミット」の意味・わかりやすい解説

ヒンデミット

ドイツの作曲家。少年時代から早熟な才能を発揮し,14歳でフランクフルトのホーホ音楽院に入学。同地の歌劇場のコンサートマスター,自ら結成したアマール・ヒンデミット弦楽四重奏団のビオラ奏者として活動する一方,作曲家として名声を高め,1927年ベルリン高等音楽学校の作曲科教授となる。後期ロマン派(ロマン主義)の美学と袂(たもと)を分かち,ドイツの作曲家として反R.ワーグナーの先陣を切ったその作風は,〈新即物主義〉の名で呼ばれ演奏界にも影響を与えた。1930年代に入るとナチスの文化政策の標的となり,グリューネワルトを主題に芸術家と社会の関係を扱ったオペラ《画家マティス》(1934年−1935年)の初演がナチス政府に禁じられ(1938年チューリヒで初演),のちスイスを経て米国に亡命,1953年以降はスイスに住んだ。作品は多ジャンルにわたり,代表作に,《カンマームジーク(室内音楽)》のシリーズ(1921年−1927年),リルケによる歌曲集《マリアの生涯》(1923年),オラトリオ《無限なるもの》(1931年),同名オペラによる交響曲《画家マティス》(1934年。同年フルトウェングラーの指揮で初演),マシンの委嘱によるバレエ音楽《気高き幻想》(1938年,改訂1939年),管弦楽曲《ウェーバーの主題による交響的変容》(1943年)など。1956年,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として来日。→ウォルトン
→関連項目クーセビツキークレンペラーブレーン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ヒンデミット」の意味・わかりやすい解説

ヒンデミット
Paul Hindemith
生没年:1895-1963

ドイツの作曲家。フランクフルト・アム・マインの音楽院で学ぶ。最初はバイオリニストとして名を成す。1921年《弦楽四重奏曲第2番》で作曲家として認められ,27年ベルリン高等音楽学校の作曲科教授となる。38年,ナチスに追われて亡命,40年アメリカへ渡りイェール大学で客員教授となる。第2次大戦後スイスへ移り,晩年は指揮者として活躍。56年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として来日した。

 彼の作風は明快な楽想,躍動的なリズムによって後期ロマン派の主情主義を一掃し,第1次大戦後〈新音楽〉として迎えられ,〈新即物主義〉と呼ばれる。また芸術至上主義に対して音楽の合目的性を主張し,〈実用音楽Gebrauchsmusik〉を唱えた。ヒンデミット,ワイルらの新即物主義は演奏界にも影響を与え,原典楽譜に忠実な客観的演奏様式の源となった。

 彼は非常な多作家でオペラ,管弦楽,室内楽などすべてのジャンルを手がけている。代表作にピアノ組曲《1922》(1922),歌曲《マリアの生涯》(1923),金管と弦楽器群の《演奏会用音楽》(1930),《フィルハーモニー協奏曲》(1932),交響曲《画家マティス》(1934),ピアノ曲《ルードゥス・トナーリス》(1942)などがある。また《作曲の手引》(3巻,1939-70),《和声学》(2巻,1943-48)などを著した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヒンデミット」の意味・わかりやすい解説

ヒンデミット
Hindemith, Paul

[生]1895.11.16. ハーナウ
[没]1963.12.28. フランクフルトアムマイン
ドイツの作曲家。フランクフルトの高等音楽学校で学んだ。 1915~23年フランクフルト歌劇場のコンサートマスター,アマール四重奏団のビオラ奏者。ドナウエッシンゲンやバーデン=バーデンの現代音楽祭創設に参加し,新進作曲家としての地位を確立した。 27~37年ベルリン高等音楽学校の作曲教授。 35~37年アンカラ音楽学校名誉教授。ナチスによる圧力のため 39年アメリカに移住し,46年市民権を取得。 40~53年エール大学音楽部長となり,51~58年チューリヒ大学とエール大学を隔年交互に講義し,晩年はスイスに住んだ。作曲家とは,社会の要求に応じて音楽をつくりだす職人であるとする彼の作品は,しばしば「実用音楽」ともいわれたが,現代音楽に及ぼした影響は少くない。 56年ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者として来日。主著『作曲の手引』 Unterweisung im Tonsatz (1937~39,未完) ,『作曲家の世界』A Composer's World (51) 。作品はオペラ『画家マティス』 (1938,チューリヒ初演) ,『世界の調和』 (57,ミュンヘン初演) ほか,バレエ音楽,映画音楽,協奏曲,管弦楽曲など多数。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒンデミット」の意味・わかりやすい解説

ヒンデミット
ひんでみっと
Paul Hindemith
(1895―1963)

ドイツの作曲家。ハーナウに生まれる。フランクフルトのホーホ音楽院でバイオリンと作曲を学ぶ(1909~17)。フランクフルト歌劇場管弦楽団のコンサートマスター(1915~23)、アマール・ヒンデミット四重奏団のビオラ奏者(1921~29)など、演奏家として活躍する一方、ベルリン高等音楽学校の作曲科教授に就任(1927)。しかしナチスに追われてアメリカに移住し(1940)、エール大学(1940~53)、さらに第二次世界大戦後はスイスに渡り、チューリヒ大学で教鞭(きょうべん)をとった(1951~55)。晩年は指揮者として世界各地を訪れ、日本にも1956年(昭和31)ウィーン・フィルハーモニーとともに訪れている。フランクフルト・アム・マインで没。彼の作曲活動は第一次大戦後から本格的に始まり、その作品は各ジャンルにわたって膨大な数に上るが、西洋音楽の転換期にあって、理論に裏づけされた調性組織の合理的再考と新古典主義的作風によって新しい方向を提示した。中世の画家マティス・グリューネワルトのイーゼンハイム祭壇画によるオペラ『画家マティス』(1934~35)と、同題の交響曲(1934)がよく知られている。

[寺田由美子]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ヒンデミット」の解説

ヒンデミット

ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。ヴァイオリン奏者として早くから活動し、また音楽院入学後はピアノやクラリネットなどを学んで、さまざまな楽器演奏に才能を発揮した。第一次大戦に従軍した際には、軍楽 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

世界大百科事典(旧版)内のヒンデミットの言及

【グリューネワルト】より

… なお,激動の時代に生き,しかも今なお多くのなぞに包まれている彼の生涯は,とくに1930‐40年代にいくつかの小説の題材となった。また作曲家ヒンデミットの,みずから台本を書いたオペラ《画家マティスMathis der Maler》(1934‐35),および同名の交響曲(1934)はグリューネワルトの生涯や《イーゼンハイム祭壇画》を主題としたもの。【千足 伸行】。…

【新古典主義】より

…彼らが回復しようとしたものは古典派音楽やバッハ,ヘンデル,ラモーなど後期バロックの諸形式であるが,和声的には調性を保ちながらも不協和音を巧みに用いて音響を豊かにした。ドイツではブゾーニが早くから新古典的な理念を主張しており,第1次大戦後はヒンデミットやK.ワイルがその代表となる。彼らは〈新即物主義〉とも呼ばれ,とくにヒンデミットは〈実用音楽〉という考えを唱えた。…

※「ヒンデミット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android