改訂新版 世界大百科事典 「レーリー」の意味・わかりやすい解説
レーリー
Lord Rayleigh
生没年:1842-1919
イギリスの物理学者。本名はJohn William Strutt。エセックス,マルドン近くのラングフォードグローブの生れ。少年・青年時代にかけては病弱のため教育もしばしば中断されたが,1865年ケンブリッジのトリニティ・カレッジを卒業,同年数学のトリポス(優等試験)に合格,翌年トリニティのフェローシップを取得した。アメリカ旅行から戻った後,実験器械装置をいろいろ取り寄せて,ターリングプレースの屋敷に私設研究室を設けて研究を始めた。70年ヘルムホルツの仕事を発展させて共鳴に関する理論を発表し,音響学の権威としての第一歩を踏み出した。また翌年空の青色について光の弾性論からの考察を加え,いわゆるレーリー散乱の法則を導いた。これを機に分光器や回折格子などの光学器械の分解能などを研究した。72年リウマチ熱を患い,エジプト・ナイル河畔に保養し,旅先で《音響学The Theory of Sound》(1877-78)の執筆を始めた。73年レーリー卿(男爵)の地位をうけ継ぐ。
79年J.C.マクスウェルの後任としてケンブリッジ大学キャベンディシュ研究所長に就任,精密測定の技術の改良に努め,電磁気標準の確立に貢献した(1884)。この仕事はイギリスにおける標準局National Physical Laboratoryの設置(1900)の先鞭をつけるものとなり,彼は終生その運営理事会の議長をつとめた。一時帰郷した後,1887-1905年ローヤル・インスティチューションの教授として活躍した。この間かねてより計画していたプラウトの仮説の実験的検証に取り組み,各種の気体の密度の精密測定をしたところ,空気から分離した窒素がアンモニアから分解したそれより重いことに気づき,これを追究して新元素アルゴンをW.ラムゼーとともに発見(発表は1895),この業績により1904年ノーベル物理学賞を受けた。また1900年,当時一大課題であった熱放射の理論的問題を古典論から取り扱い,いわゆるレーリー=ジーンズの放射則を導いた。このようにレーリーは光学,音響学,電磁気学,振動論,その他に流体力学,毛管現象の研究等々,きわめて広範囲な分野にわたって仕事をしたが,彼の物理学の基本は,相対論や量子論にはしんらつな批判を加えたことにも示されているように,古典物理学の伝統を守りその枠内で解決することにあり,その望みを最後まで捨てなかったといわれている。
1884年イギリス学術協会の会長,85-96年ローヤル・ソサエティの幹事,1905-08年同会長をつとめたほか,トリニティの顧問,ロンドンの配給ガス検査官長,陸軍省爆薬関係委員会委員長にも就任,また教育にも関心を示し,いくつかの教育機関の運営理事,ケンブリッジ大学名誉総長(1908-19)になるなど幅広く活躍した。
執筆者:兵藤 友博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報