イタリアの画家。ピエトロの兄弟で、ドゥッチョ、シモーネ・マルティーニとともにシエナ派を代表する画家。ピエトロと同様にドゥッチョか、その周辺の画家のもとで修業したと思われるが、フィレンツェの新しい絵画からも学んだ。彼は14世紀の初めにフィレンツェで仕事をしたシエナ画家の1人で、フィレンツェの組合に登録した記録がある。たとえば、空間の三次元的表現をジョット絵画から習得し、この点では14世紀でもっとも進んだ作品を残している。シモーネ・マルティーニがアビニョンに行ったのち、彼はいわばシエナ共和国の画家といった扱いを受け、1330年代に多くの重要な仕事を市政府から依頼された。そのもっとも重要な遺品は、シエナのパラッツォ・プブリコ(市庁舎)内の「平和の間」に残る壁画である。このうちの「善き政府の効果」、つまり善政下の都市国家のようすを表した作品は、当時の生活を生き生きと伝える傑作としてことに名高い。彼の作品には、ピエトロの場合とは異なり、独特のおおらかさと人間味、そしてしっかりとした現実感がある。彼はシエナ派とフィレンツェ派の成果を融合することに成功した画家だった、といえよう。1348年の黒死病(ペスト)で没した。
[石鍋真澄]
イタリアの画家。シエナに生まれる。当代最高の画家ドゥッチョのもとで画業を学んだと思われるが、1320年まで制作年代のわかる作品がないので、初期の活動についての詳細は不明である。30年代には多くの重要な作品を手がけた。35年に兄弟のアンブロジオとともにシエナのサンタ・マリア・デッラ・スカーラ病院の正面に描いた壁画は、残念ながら現存しないが、シエナの画家たちに大きな影響を与えたと思われる。また、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂下院の翼廊部にキリスト伝諸場面の壁画を描き、「聖母子」「キリストの埋葬」「キリストの十字架降下」などの傑作を残した。彼の作風は、初めはドゥッチョの影響が顕著だが、しだいにピサの彫刻家ジョバンニ・ピサーノやフィレンツェのジョット風の劇的な物語の表現を身につけ、シエナ派としては異色の画家に成長した。兄弟のアンブロジオとともに1348年の黒死病(ペスト)の犠牲になったと考えられている。
[石鍋真澄]
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