改訂新版 世界大百科事典 「アイルランド美術」の意味・わかりやすい解説
アイルランド美術 (アイルランドびじゅつ)
アイルランドの顕著な美術活動は,ヨーロッパ大陸大西洋岸およびブリテン島の巨石文化と相通ずる新石器時代の巨石墳をもって始まる。中でもニューグレンジNewgrangeのそれは豊富な幾何学文装飾のゆえに名高い。青銅器時代に入り,その抽象表現は,金属という展延性をもつ素材によって大いに発達するが,その高度な開花をみたのはケルト人と共に到来した鉄器文化の時代であった。ローマ帝国の進出と共に大陸やブリテン島のケルト人がローマ化したのに対し,ローマ征服を免れたアイルランドのケルト人は,黄金やエマイユ(七宝)の色彩への興味とその抽象的造形本能とを保持し,いっそう展開させた。以来,アイルランドは一貫して,地中海世界の現実と一致した自然主義美学に対する抽象主義美学の拠点となり,大陸へも深い影響を及ぼした。ケルトのラ・テーヌ様式(ラ・テーヌ文化)の巴文や螺旋(らせん)文は,アイルランドでは優美にのびるらっぱ状モティーフによってつながり,様式化された植物や鳥の形をなす先端から再び同じパターンが繰り出される無限旋回を示す。金工品(服飾品,鉢,王冠,らっぱなど)に表れるその優れた文様は,やがてキリスト教美術においてさらに複雑華麗な発展を遂げる。ローマ教会と対立するアイルランドを拠点とするケルト教会は,その東方的な禁欲的修道院制度にふさわしい独自の芸術を開花させた(最盛期は7世紀末~10世紀)。修道院は,かつての部族の住居に近い形体を守り,また木造であったが,しだいに石造の聖堂が建てられるようになり,方形プランに舟底形の石積みをした祈禱所(ガレルス,6~7世紀など)や後の細長く先のとがった円塔(クロンマックノイズ,9~10世紀など)等,きわめて小規模なものであった。この簡素な建築に対し,修道院工房からは金工品,写本画,十字架石碑など豊かな造形芸術が生み出され,初期ヨーロッパ美術における最も輝かしい成果の一つをあげた。その芸術は反自然主義,反図像主義の原理に基づいており,ラ・テーヌ後期のモティーフを継承してこれにキリスト教的意味を付与させたものである。そこにはさらにゲルマンのモティーフ(動物組紐文)や地中海世界のモティーフ(組紐文)もとり入れられた。大陸の影響の下に描かれた人間像や聖書中の説話場面は完全にアイルランドの伝統的装飾原理に服し,現実的形体を奪われて,超越的次元へと移しかえられた。金工品では,従来の世俗的服飾品(タラのブローチ,8世紀など)のほか,聖杯(アーダーグの聖杯,8世紀など),聖遺物匣(パトリックの聖遺物匣,1100年ころなど),聖書装丁板等が加わり,いっそうの洗練と技術の極致を示す。何よりも輝かしいアイルランド美術の果実は,修道士の労苦の結晶たる写本画(《ダローの書》7世紀,《ディンマの書》8世紀末,《ケルズの書》9世紀初めなど)である。ここでは,多様な起源に由来するモティーフ(巴文,螺旋文,組紐文,動物組紐文)の組合せによって,宗教的価値をみごとに創出している。それは,福音書の扉絵の全ページ装飾や文章冒頭の装飾文字に最もよく発揮された。十字架石碑は,アイルランド,スコットランド,ブリテン島にみられる独特のモニュメントであるが,メンヒル型から円環を伴う大十字架へと発展する。そこに施される浮彫は,組紐文や螺旋文など金工品や写本画のモティーフを拡大したものである。アイルランドの修道士たちの布教活動に伴い,その芸術もノーサンブリア(イギリス中部)から北イタリアに至るヨーロッパ各地に伝播した。彼らが創設したアイルランド系修道院には,今日なおアイルランド色の濃い写本が保存されている(ザンクト・ガレン修道院など)。なおその影響下に現れたと思われる壁画も発見されている(北イタリア,ナトゥルノ,サン・プロコロ聖堂)。ロマネスク時代(11~12世紀)に至り,イギリスやフランスの影響下に聖堂が建設され,聖堂装飾が開始されるが,そこにも土着の要素と大陸やイギリスのロマネスク様式との奇妙な混合を生じた(クロンマックノイズ,クロンファートなど)。しかし,1169年のノルマンの征服と共にアイルランドはその装飾原理優位の固有の芸術を失い,大陸の美術と同化するに至った。
→ケルト美術
執筆者:岸本 雅美
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