アウンサンスーチー

デジタル大辞泉 「アウンサンスーチー」の意味・読み・例文・類語

アウン‐サン‐スー‐チー(Aung San Suu Kyi)

[1945~ ]アウン=サン長女ミャンマーの民主化運動指導者。もと国民民主連盟NLD)総書記長軍事政権により、1989年から2010年まで、断続的に自宅軟禁下に置かれた。1991年ノーベル平和賞受賞。2012年の連邦議会補選に当選。2016年に発足した民主政権下で外相・大統領府相・国家最高顧問に就任

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百科事典マイペディア 「アウンサンスーチー」の意味・わかりやすい解説

アウンサン・スーチー

ミャンマーの政治指導者。ヤンゴン(旧ラングーン)出身。ビルマ建国の父,アウンサン将軍の長女。デリー大学,オックスフォード大学卒。卒業後,英国人のチベット学者と結婚。1969年―1971年国連職員,1985年―1988年京都大学東南アジア研究センター研究員。1988年帰国後,反軍事政権運動の中心的存在となり,同年9月国民民主連盟(NLD)の党書記長に就任。1989年7月以来6年間にわたって自宅軟禁状態に置かれた。1990年5月の総選挙には立候補できなかったが,NLDが大勝。しかし軍事政権はその後も居座り,1991年4月に軍事政権の圧力で党書記長を解任される。1991年12月ノーベル平和賞受賞。その後,軍事政権側からの,国外へ出るなら釈放するとの誘いを拒否。1995年7月自宅軟禁から解放,同年10月NLD書記長に復帰。自宅前集会を通じて軍事政権を批判,政権の委譲を訴えてきたが,依然として軍事政権側の監視下にあり,政治活動も制限を受けた。2000年9月に再び自宅軟禁,2002年5月には解放されたが,2003年三たび拘禁された。2009年5月,米国人男性の自宅侵入が〈国家転覆防御法〉違反であるとして起訴され,1年6ヵ月の自宅軟禁の刑が言い渡された自宅軟禁は最長6年であることから,軍事政権が拘束延長を狙ったとみられる。2009年7月国連事務総長潘基文がミャンマーを訪れたが,軍事政権は面会を許容せず,軍事政権に対する国際的な批判が続いた。2011年,ミャンマーのティン・セイン政権は欧米との関係改善を目指して,漸進的な民主化方針を採り始め,スーチー対話を開始,政治犯を釈放,NLDの政党としての再登録を承認した。2011年には米国のヒラリー・クリントン国務長官がミャンマーを訪問,スーチーと面会するなど,ミャンマーの民主化加速を世界に印象づけた。スーチーは2012年1月NLD中央執行委員会議長に選出され,4月,議会補選に立候補,NLDはスーチーを含む41人を当選させた。最大野党を率いるスーチーは2013年3月軍の式典に出席するなど,民主化を後戻りさせないために軍にも一定の妥協的姿勢と現実政治的姿勢を示しつつ,憲法改正と次期大統領選出馬を視野に入れて活動しているとされる。
→関連項目ノーベル平和賞

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知恵蔵 「アウンサンスーチー」の解説

アウン・サン・スー・チー

ミャンマー(ビルマ)民主化運動の象徴的存在。1945年、ビルマ独立の指導者アウン・サン将軍の長女として、首都ラングーン(現ヤンゴン)に生まれる。15歳の時、母キン・チ-のインド大使就任に伴い、ニューデリーに移住。名門女子大レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、英国のオックスフォード大学に進学し、哲学・政治学・経済学の学位を取得した。卒業後、69年から71年までニューヨークの国連本部に勤める。72年、英国人仏教学者マイケル・エリアス(99年に死去)と結婚し、約1年半、ブータン王国外務省で研究員として働く。その後、ロンドンに拠点を移し、父アウン・サン将軍の研究を始める。85年10月、父の足跡を追って来日し、翌年6月まで京都大学東南アジア研究センター(現・同大東南アジア研究所)の客員研究員として滞在した。88年、26年間にわたって軍事独裁を続けてきたネ・ウィン元大統領が党総裁(ビルマ社会主義計画党)辞任を発表すると、ビルマ国内で学生を中心に激しい民主化運動が起こった。母の看病で帰国していたスー・チーも、これに合流。同年8月26日、シュエダゴン・パゴダで、数十万人の聴衆を前に民主政権の樹立を訴えた。この演説の後、国民民主連盟(NLD)を設立し、書記長に就任。ビルマ国内を遊説するなど、本格的な政治活動を開始したが、クーデターで全権を掌握した新軍部の国家秩序回復評議会(SLORC)によって、89年に自宅軟禁に置かれた。90年5月の総選挙では、NLDが圧倒的多数の議席を得たものの、SLORCは政権委譲を拒否。その後、国家平和発展評議会(SPDC、97年にSLORCから改組)のタン・シュエ軍事独裁政権が現在まで継続することになる。スー・チーの自宅軟禁は98年7月に解かれるが、その後も、拘束・軟禁は2000年9月~02年5月、03年5月~10年11月と計3回にわたって繰り返された。1回目の軟禁中には、人権擁護への貢献が認められ、1990年に10月トロルフ・ラフト賞(ノルウェー財団)、91年7月にサハロフ賞(欧州議会)を受賞している。91年10月には、民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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世界大百科事典(旧版)内のアウンサンスーチーの言及

【ミャンマー】より

…超大国に対しては等距離姿勢をとり,79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退した。【大野 徹】
【政治】
 1988年6月から起こった反政府運動は,しだいに全国的な運動に発展し,アウンサン将軍(独立運動の指導者)の長女アウンサン・スーチーAung San Suu Kyiをリーダーとする民主化要求運動に集約されていった。9月には政治運動に乗じて,各地で暴動,掠奪,放火などが横行し,無政府状態となった。…

※「アウンサンスーチー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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