翻訳|Akkad
古代メソポタミアの地名,民族名,言語名。メソポタミア南部の沖積平野,後のバビロニアの北半部(ニップール以北)の地を指す。この地にはすでに前3千年紀はじめころから,最南部のシュメールとは異なってセム人がシュメール人とともに活躍し,いわゆるシュメール都市国家の発展に寄与した。伝承上,洪水後最初の王朝とされるキシュ第1王朝の王名中にはアッカド系の名前が多く見られ,前27世紀ころにはシュメールの都市国家シュルッパクの史料中にアッカド語の人名が見いだされる。前2350年ころサルゴンが,おそらく幾世代にもわたってシュメール文化に親しんでいたセム系のアッカド人を率いてこの地に首都アガデAgadeを造営し(その遺跡は未発見。シッパルとキシュの間のユーフラテス川沿いに位置するとされる),メソポタミア最初の帝国を建設,伝承によると11王,181年(前2350ころ-前2150ころ)に及ぶ王朝を創始した。これがアッカド王国である。この時代にバビロニア北部でセム人要素とアッカド語が支配的となり,以後この地がアッカド,後のバビロニア地方が〈シュメール・アッカド〉と呼ばれるにいたった。伝承の伝えるサルゴンの56年の長い治世,その子リムシュおよびマニシュトゥシュの計24年,後者の子で祖父サルゴンと並び称せられる大征服者ナラムシンの37年,その子シャルカリシャリの25年,計5代142年の治世年数は,ほぼ信頼しうる。1度の兄弟相続を除いて親子継承が行われ,かつそれぞれ相当長い治世年数を有したことは,各王の即位時や治世末期の宮廷陰謀とシュメール都市の大反乱,またたび重なる蛮族侵入にもかかわらず,5代100余年にわたって王国が維持されたことを示す。
アッカド王国は古代メソポタミア史上に重要な意義を有する。政治的には,第1に長い独立の歴史を持つ南部メソポタミアの諸都市国家(キシュ,シッパル,アクシャク,ウルク,ウル,ラガシュ,ウンマなど)を統合して最初の集権的統一国家を形成し,この地に交通・交易・農業生産の発展をもたらした。行政上でも各地方や主要都市にアッカド人の総督が任命され,軍事的には各地の守備隊のほか,首都アガデには常備軍が組織されていた。第2に,アッカド王たちがたびたび四方に軍事遠征を行って,南部メソポタミアを大きく越える,西アジア史上最初の軍事的・商業的帝国を現出した。サルゴンの西方遠征を記録した碑文には,ユーフラテス川中流のマリ,北シリアのエブラ,シリアの地中海沿岸の都市イアルムティ,さらに〈杉の森〉(レバノン)や〈銀の山〉(小アジアのトロス山脈)などを征したことが記され,またメルハ(インダス河口?),マガン(アラビア海沿岸),ディルムン(バーレーン島)の船がアガデの埠頭に碇をおろしていたと述べられている。実際,ナラムシンの碑文はティグリス川に沿った1000kmにおよぶ諸地点から発見されている。またマニシュトゥシュやナラムシンの碑文は,アッシリアのアッシュール,ニネベやエラムのスーサなどの大都市が王国の支配を受け入れたことを示しており,北部メソポタミアおよび東方への領土的拡大が行われたことは明らかである。サルゴンやナラムシンが〈下の海(ペルシア湾)〉から〈上の海(地中海)〉にひろがる広大な地域をその盛時に支配したのは事実であった。ナラムシン以降,アッカド王が〈四方(=世界)の王〉を称し,王名の前に神を示す決定詞を記させたのも,統一支配・帝国的支配のイデオロギー的表現といえよう。文化史的意義としては,セム系アッカド人の衝撃とそのイニシアティブのもとに,シュメール・アッカド文化複合体が成立したことがあげられる。ナラムシンの戦勝記念碑の緊張感あふれる浮彫や,サルゴンを写したとされる青銅製の威厳ある武人的頭部彫像は,公用語となったアッカド語を記したみごとな楔形文字書体などとともに,メソポタミア文化が新しい活力を獲得したことを示している。しかし,王国はシャルカリシャリの死(前2193)後,急速に衰微・分裂し,東方からはグティ人,西方からは遊牧民アムル(アモリ)人の侵攻にあって滅亡した。
→バビロニア
執筆者:山本 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代メソポタミア南部の地名。都市アガデAgade(アッカド)の名が拡大されて地域名となった。紀元前2350年ごろ、セム系民族のサルゴン1世が南部メソポタミア(バビロニア)の諸都市を征服統合して、セム系民族として最初のアッカド王国を樹立した。それ以後ほぼ現在のバグダード以南の地方の北半分をアッカド、南半分をシュメールとよんだ。シュメールとアッカドを対比させてよばれるようになるのはアッカド王国滅亡後、シュメール民族によるウル第3王朝が樹立(前2060ころ)されてからである。シュメールの王は「シュメール・アッカドの王」という称号を用いるようになる。この地方は、のちにバビロニア、さらにのちにはカルデアとよばれるようになった。アッカド地方にはすでに前2350年以前からセム系民族が居住し、シュメール人と平和的な共棲(きょうせい)関係にあり、言語的、文化的に相互影響を与えていたが、アッカド王国(サルゴン朝)以後は人種的、文化的混合が著しく進展した。アッカド地方の都市では、主都アッカドのほか、シッパル、バルシップまたはボルシッパ、キシュ、ディルバット、アクシャク(セレウコス朝のウピ)、クタ、バビロン、ドゥル・クリガルズ、フルサッグ・カランマなどがあったが、アッカドの遺跡はまだ確認されていない。
アッカド市の守護神は「アッカドのイシュタル」であった。この女神の神殿はハムラビ王によって復興されたが、古くはサルゴン1世、その孫のナラム・シン、クリガルズ、エサルハッドン、ネブカドネザル2世によってもたびたび修復されている。アッカド王国(前2350ころ~前2150ころ)は11王が治世したが、多くの碑文を残して有名なのは最初の5王(サルゴン1世、リムシュ、マニシュトゥシュ、ナラム・シン、シャルカリシャッリ)で、他の6王については碑文はごくわずかである。このうちサルゴンはシュメール語とアッカド語の対訳碑文を残している。それによれば「5400人の兵士が毎日彼の目の前でパンを食べ」ている。おそらくこれらの常備軍を背景に武力によって小アジア、シリア、エラム、アッシリアその他に進出し、一時的とはいえアッカド王権の勢力範囲と交通、貿易の範囲を飛躍的に拡大したと思われる。またアッカドに波止場をつくり、ペルシア湾を利用した通商航路を開き、それ以後の広域貿易の基礎を据えた。この時期にはシュメール人とアッカド人との人種的、文化的混合がいっそう進展し、一種の文化的複合体が成立し、バビロニア文化の母体となった。多くの文学作品の作者として知られるサルゴンの娘は、ウルの月神ナンナに仕える女祭司であり、シュメール名エンヘドゥアンナを名のっている。美術史的にもいわゆるサルゴン期を現出し、ナラム・シンの戦勝碑など数多くの優れた作品が出土している。
[吉川 守]
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アッカドには,都市,王朝,言語・民族,地方の意味がある。すべては,サルゴンがアッカド市(所在地は不明)を首都として,前24世紀後半にメソポタミア全土を支配するアッカド王朝を建てたことに始まる。この王朝の支配層はセム語族の言語を使用し,これをアッカド語と呼ぶ。この言語を話す人々がアッカド人であり,彼らの居住地域が,メソポタミア南部のシュメールに対して,北のアッカド地方である。アッカド王朝以降「シュメールとアッカド」という連称によって王の支配領域を示すようになる。なお,アッカド語は,西セム語族や南セム語族に対する東セム語族をさす場合があり,この場合(古)アッカド語とともにバビロニア語,アッシリア語を含む。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…本項では歴史の流れを考慮し,アッカド美術をも記述に含める。 シュメール美術の作品例は,ウルク期(前3800ころ‐前3000ころ)のころからのものが知られている。…
※「アッカド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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