翻訳|Alps
ヨーロッパ大陸の南西部を東西に半月形の弧を描いて横たわる大山脈。アルプスは英語での呼称で,フランス語ではアルプAlpes,ドイツ語ではアルペンAlpen,イタリア語ではアルピAlpiと呼ばれる。延長約1200km,幅130~200kmに及ぶ。ザンクト・ゴットハルト峠で山脈を東西に二分すると,東アルプスは西アルプスより多くの山脈に分枝して,幅は広いが高度は低い。総面積は約18万km2で,その40%が西アルプスに,その60%が東アルプスに属する。ここに1200万の人々が居住する。その間に西からモン・ブラン山塊,マッターホルン・モンテ・ローザ山塊,ユングフラウ山塊,ベルニナ山塊などの4000m級の山塊やオルトラー山塊,ホーエ・タウエルン山塊などの3000m級の山塊が数多くあり,最高峰はモン・ブラン(4807m)である。第三紀の造山運動でできた褶曲山地であるが,第四紀の氷期に氷河作用をうけ,その氷食地形をよくとどめる。現在でも大小合わせて1000を超える谷氷河が残存する。スイス・アルプスの中央部は,北海に注ぐライン川,地中海に流れ出るローヌ川,黒海に至るドナウ川の支流イン川などの分水嶺をなし,〈ヨーロッパの屋根〉と称される。また,ユングフラウ(4158m)の雪原から流れ出すアレッチュAletsch氷河は,延長27km,氷は厚いところで800mに達し,その末端は千数百mの高度にある村まで流下している。
アルプスの気候は多様である。地中海に面した南縁部は地中海式気候,北縁部は西岸海洋性気候であり,山岳部では冷涼湿潤気候,ツンドラ気候,氷雪気候が高度に応じて出現する。降水量は局地的に著しい差異があるが,一般に高度を増すにつれて多くなり,年間1000mmを超えるところが大部分である。気温も局地的な諸条件で差異が生ずるが,最も顕著なものはアルプスの地方風として知られるフェーンの影響である。この風がアルプスの北斜面を河谷に沿って吹きおりる時には,異常に気温が上昇して激しい融雪をひきおこし,また乾燥しているため大火の原因となることがある。
平地が河谷部に限定されるアルプスにおいて,広大な山地斜面の利用は地域住民に課せられた最大の課題である。河谷平地は,かつては洪水や土砂の流出に悩まされ,今日のような高い安定した生産は望めなかった。そういう時代に農民は自給農業を確立することに努めた。これが現在の土地利用形態の根幹をつくり出し,特有の形態が発達した。本地域は降水と気温の条件から,草の生育,牧草の栽培の好適地で,家畜の飼養を中心とした農業へと発展した。牧養には,普遍的に分布するアルプと称される高位の草地を放牧に組み入れた。河谷部または下部斜面に本村(冬村)と農耕地が開かれ,アルプ放牧地との中間にマイエン草地が森林を切り開いてつくられた。こうして低位・中位・高位の三つの高度を異にする農用地を,季節に従って家畜を垂直的に移動させる牧養となった。これが移牧であって,アルプ農業の特徴である。
一般にアルプ農業の土地利用形態は,河谷部から山頂部に至る間に次の四つが配置される。
(1)本村農地Heimgüter 本村は,河谷部または日当りの良い下部斜面の緩傾斜地に位置し,その周辺に耕地がある。耕地では穀物が自給食糧として栽培されたが,現在では穀物が容易に移入されるので,耕地は永久牧草畑に変えられる傾向にある。大略の高度は1000m前後である。
(2)マイエン草地Maiensässe 本村からアルプ放牧地へ家畜を追い上げる途次,またはその帰途に短期間家畜を飼養するための草地で,マイエンゼッセ(5月の草地)と呼ぶ。本村からの到達性が劣れば,そこに移住して相当期間居住することもある。これらの農家が幾戸か集まって夏村集落が形成される。本村より300m前後の高所に位置する。
(3)森林Wälder 森林は,本村から樹木限界に至る広い間に分布する。雪崩(なだれ),岩の崩壊など自然災害を防止する保安林,チーズ,バターの製造と家庭の燃料ならびに家屋や村の公共施設の建築材の供給林,観光用の風景林などとしての機能をもつ。一般に針葉樹林で大木が繁茂している。
(4)アルプ放牧地Alpweiden 樹木限界線以上にある天然の草地で,山頂部の高原状の部分に広がり,面積は広大である。その面積比率をみると,全体的に東アルプスの方が大きく,オーストリアのチロルでは43%に達する。その所有形態は,村,組合,企業連合などの共同の所有であり,管理も共同で行われる。私有は少ない。ここにアルプ小屋をつくり,牧夫たちはチーズ,バターの製造を行う。最近では乳をミルク輸送管で河谷集落に送り,そこで加工するところが増えた。アルプの高度は2000m前後から雪線までである。
山地斜面の傾斜は場所による差異が著しく,堅い地層のところには大規模な急崖があって,全体としてみるといくつかの階段状地から形成される。
現在,アルプスの土地資源で最も高い価値をもつものは,風景にもとづく観光資源である。緑色のじゅうたんになぞらえられる草地,斜面の紺青色の森林,岩峰と雪原や氷河,紺碧の湖水が鮮やかに輝いてみごとなコントラストをなし,その間に調和のとれた風景が醸し出される。アルプスの観光は,古くはローマ時代の温泉集落に求められるが,現在の主要な観光地は避暑地や登山基地から発展したものが大部分である。第2次世界大戦後の目覚ましい観光業の発展は,スキー人口の急増に負うところが多く,ホテル,ペンションなどの宿泊施設の充実やスキー場とリフトの拡大,テニスコートなどのレジャー施設,さらにはレストラン,みやげ物店などの関連産業が盛大となり,地域住民に就業の場を年間を通じて提供することになった。かくて村の人口流出はとまり,かえって人口の増大さえあらわれている。かつては廃村またはその寸前まで戸数の減少した村も,観光業の進展で蘇生したところが多い。
観光地は数多いが,なかでもフランスのシャモニ,スイスのグリンデルワルトGrindelwald,ツェルマット,ダボスDavos,オーストリアのインスブルック,キツビューエルKitzbühel,ザンクト・アントンSankt Anton,イタリアのコルティナ・ダンペッツォなどが著名である。観光施設や交通路が整備され,世界のレクリエーションランドとしての性格を強めている。一方,観光業の発展はその程度が過ぎて環境破壊が問題視される状態となった。アルプスの景観は人間が培ってきた農業的土地利用との関連において成立しているが,農業の不振と観光開発の激しさとで,その調和が破られようとしている。将来にわたって環境保全の措置を講ずることが必要となっている。
豊富な水量と高落差の河川があることから,早くから水力の開発が進められ,アルプス諸国の産業の発展に大きく貢献してきた。ダム貯水池の建設が本格化したのは,第2次世界大戦後の1950年代からである。現在,大小300以上の貯水池があり,その数ではイタリアが最も多くて40%余を占めるが,貯水量の点ではスイスが最大で35%である。いずれもアルプス諸国ではダムの建設が進んで,電力の大供給地となっている。ダム貯水池の建設は,アルプスの景観の損傷や生態の変化,下流の河谷集落への悪影響などの負の作用も指摘されており,今後の水力資源の開発にはより多くの検討が要求される。
アルプスにはこれを越える有名な峠があり,古くから南北の交通路として重要な役割を果たしてきたが,大きな交通の障害であったことは時代を通じて変りがない。最近における交通路の整備は,19世紀以降の鉄道,自動車などの輸送機関が発達してからである。1867年には現在のオーストリアとイタリア間のブレンナー峠に鉄道が開通した。これは低い鞍部を利用したものである。これに対し高峰の連なる西アルプスでは,トンネルの開設による鉄道と道路の建設に重点がおかれた。鉄道ではシンプロン・トンネル,ザンクト・ゴットハルト・トンネルがある。自動車道としては,スイスとイタリアを結ぶグラン・サン・ベルナールGrand Saint Bernard峠の自動車道のトンネルが1964年に完成し,翌年の65年には,フランス~イタリア間に当時世界最長(11.6km)のモン・ブラン・トンネルが開通した。これらによってアルプス諸国の政治・経済・文化的交流が一層容易となるとともに,ヨーロッパ諸国の関係も密なものになってきた。
執筆者:上野 福男
アルプス登山の歴史は1786年8月8日にはじまる。この日,アルプスの最高峰モン・ブランは,シャモニに住む水晶採りのジャック・バルマと医者のガブリエール・パカールによって初登頂された。この登頂にはスイスの学者H.B.deソシュールが大きく貢献している。ここに山登りそのものを目的とする〈登山〉という新しいスポーツが誕生した。アルプスの高峰はその後,次々と初登頂されるようになった。とくに19世紀に入ると,スイス,イタリア,ドイツ,オーストリア,フランス,また海を渡ってくるイギリスの多くの登山家たちがめざましい活躍をした。登山家たちを山に案内したのはシャモニ,ツェルマット,グリンデルワルトなど,地元の村に住む屈強な山男たちで,やがて彼らはガイド組合を結成した。こうしてモン・ブラン初登頂から80年近くの間に,アルプスのおもな山は次々と初登頂された。
しかし,登はんは不可能だとみなされていた山が一つあった。マッターホルンである。だが1865年7月14日,初登頂の栄誉は7回も試登をくりかえしてきたイギリスのE.ウィンパーの頭上に輝いた。マッターホルンの初登頂によって,アルプスの4000m級の山々の初登頂を目標にしていた登山史上の黄金時代は一応終りを告げたが,これによって初登頂すべき山がなくなってしまったわけではない。とくに標高は4000m以下でも,技術的にはさらに困難な高峰がいくつも残っていた。その代表的なものがゼクラン山群のメージュ(3983m)で,77年にB.deカステルノの一行によって初登頂された。
このように未登の困難な3000m級の諸峰を目標にする一方,すでに初登頂された峻峰を,今度はさらにむずかしいルートから登はんするという新しい傾向が生まれ,アルプスは再征服時代を迎えた。また地元のガイドにリードされることなく,登山家自らの技術によって山を登ることに新しい喜びを見いだす人たちが現れ,登山の形式も変わってきた。これを実践した代表的な人物は,マッターホルンのツムット稜やダン・デュ・ルカン,グレポンなどの岩峰の初登はんで名声を高めたイギリスのA.F.ママリーである。より困難なルートに挑むスポーツ・アルピニズムは隆盛の一途をたどり,数多い未登の岩壁も20世紀に入って次々と完登されたが,いつまでも登はんを許さない三つの大岩壁があった。マッターホルン,アイガー,グランド・ジョラスの三大北壁である。多くの第一線クライマーの渇望の的であり,第1次大戦後〈アルプスに残された最後の3課題〉と呼ばれていたこれらの北壁も,1931年にマッターホルンの北壁が登られたのを最初にして,アイガーとグランド・ジョラスはそれぞれ38年に初登はんされた。
第2次大戦後,とくに60年以後,登山家の登はん技術は極度に向上し,装備・用具も改良された結果,三大北壁が初登はんされた時代には思いもよらなかった,さらに技術的に困難な岩壁が次々に登られ,また冬季登はん,単独行による登はん記録も次々と樹立され,現在アルプスからは不可能という文字は消え去った感がある。
執筆者:近藤 等
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スイス,フランス,ドイツ,イタリア,オーストリアにまたがるヨーロッパの大山脈。ヨーロッパの屋根。最高峰はモンブラン(標高4810m)。中欧,北欧,南欧の境界をなし,50にあまる峠で各地と結ばれる。内ガリア(アルプス以南の北イタリア地方)の征服やハンニバルの侵入によりローマ人の知見のなかに入り,カエサル,ティベリウスの北方遠征後,2世紀までに山越えの道は5本開けた。近代的登山の歴史は19世紀に始まる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…アルプス山脈付近から西アジアを経て,ヒマラヤ,インドネシアに続く地球上最大の山脈系の一つ。その西端はスペイン・フランス国境のピレネー山脈や北アフリカのアトラス山脈で,これからアペニノ山脈,アルプス山脈,カルパチ山脈,ディナル・アルプス山脈,小アジア半島,カフカス山脈,ザーグロス山脈,ヒンドゥークシュ山脈と続いて,ヒマラヤ山脈に至る。…
…正式名称=イタリア共和国Repubblica Italiana面積=30万1225km2人口(1996)=5746万0274人首都=ローマRoma(日本との時差=-8時間)主要言語=イタリア語通貨=リラLira長靴形に地中海に突出した半島を主体とする共和国。北はアルプスを境としてフランス,スイス,オーストリアに接し,東は地続きのユーゴスラビアとともにアドリア海を抱き,西はティレニア海に臨む。
【国土と住民】
現在のイタリア共和国の範囲がイタリアとして理解されるようになるのは,近代になってこの範囲においてトスカナ語が共用語として用いられるようになってからのことである。…
…オーストリアスイス
【自然】
[地形,地質]
ドイツは地表面の起伏とその成立ちの点から3地域に区分されることが多い。それらは北ドイツ低地Norddeutsches Tiefland(北ドイツ平原),中山山地Mittelgebirge,アルプスである。中山山地は地塊山地地域と南西ドイツ階段状山地地域に,アルプスはいわゆる高山のアルプスとアルプス前縁地Alpenvorlandとにさらに細分されることがある。…
…
【歴史】
モーセはシナイ山で神の啓示を受けた。ハンニバルは前218年第2次ポエニ戦争で,兵約6万と象37頭を率いてピレネーやアルプスの山脈を越えたといわれる。歴史の中で山はときに聖なる所であり,ときに悪魔の住む所,あるいはまた戦いのため,生存のため征服し,切りひらくものであった。…
※「アルプス山脈」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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