改訂新版 世界大百科事典 「ウィリアム3世」の意味・わかりやすい解説
ウィリアム[3世]
William Ⅲ
生没年:1650-1702
1688年の名誉革命によってイギリスの王位についた国王。在位1689-1702年。ウィレム3世とも呼ばれる。オランダのオラニエ=ナッサウ家に総督ウィレム2世の子として生まれる。オラニエ公ウィレム,のちイギリスではオレンジ公ウィリアムとしても知られる。母はイギリス国王チャールズ1世の長女メアリーで,ウィレム自身のちにチャールズ1世の孫メアリー2世(ジェームズ2世の娘)と結婚(1677)しているので,イギリスのスチュアート王家とは姻戚関係にある。オランダは16世紀後半にスペインから独立したものの,たびたびフランス王ルイ14世の侵略をうけ,国内ではアムステルダムの商人層を支持基盤とするヨハン・デ・ウィト派と中産的生産者層を基盤とするオラニエ派が対抗していた。ウィレムは当時優勢であったウィト派の監督のもとに育てられ,ライデン大学卒業後,国務会議の一員となることを許された。1672年フランス軍がふたたびオランダを侵略するにおよんで対外和平政策をとっていたウィト派へのオラニエ派および民衆の不信が強まり,ウィレムは軍総司令官,ついで一時廃止されていた総督(在位1672-1702)の地位についた。78年ナイメーヘンの和約によりフランスと和を結び,領土保全に成功したが,フランスの拡張政策をおさえることがウィレムの生涯の願いであった。
88年,イギリス国内でジェームズ2世と議会との対立は決定的となり,6月にひそかにウィレムのもとへ招請状がとどけられた。イギリスの対フランス接近を恐れてその動向を注目していたウィレムは,軍を率いてイギリス南西部へ上陸,ジェームズ軍と交戦することなくその逃亡を待ち,12月にロンドンへ入った。ただちに仮議会を召集し,その決定によって翌年2月,ウィリアム3世として妻メアリー2世と共同で王位についた。このとき議会が提出したのが〈権利章典〉である。つづいてスコットランド議会が提出した〈権利の要求〉をうけいれて,スコットランド国王をも兼ねることとなった。即位後,アイルランドへ戻ってきたジェームズを,みずからボイン川の戦(1690)でうちやぶり,オランダと同盟してフランスと争い(1689-97年,ファルツ戦争),ライスワイク条約によってウィリアムの王位をフランスに承認させた。スペインの王位継承をめぐって1702年2月ふたたびフランスと開戦したが,その翌月,落馬事故がもとで死亡した。妻メアリーが1694年に死亡してからは,単独で王位にあったわけであるが,その在位中,国内では宗教寛容法(1689),王位継承法(1701)の制定など,近代民主主義の土台がつくられつつあった。しかし,王権の制限を好まなかったウィリアムの歴史的業績は,フランスに代わってイギリスが国際舞台の中心にのしあがる基礎を築いたことにあったというべきである。
→名誉革命
執筆者:浜林 正夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報