イギリスの博物学者、進化論者。マンモスシャーに生まれ、土地測量や建築業に従事したが、学校教員時代に昆虫学者ベーツH. W. Bates(1825―1892)と知り合い、1848年から1852年まで、ともにアマゾン地方の博物採集を行った。さらに1854年から1862年にかけてマレー諸島に旅行し、博物学および動物地理学の研究を行った。この間に経済学者マルサスの『人口論』を読んで、ダーウィンとは独立に生物進化の「自然選択」の原理に思い至り、「変種がもとの型から出て無限に離れていく傾向について」On the tendency of varieties to depart indefinitely from the original typeという論文を書いて、1858年2月にダーウィンに送った。ダーウィンはこの論文を地質学者のライエルに送り、ライエルと植物学者のフッカーの勧めによって、自説の抜粋や、アメリカの植物学者グレーへの手紙をウォーレスの論文とともにリンネ学会で発表し、一方、執筆中であった種の起原に関する大著を中止してあらましのみを書き上げ、翌年に『種の起原』として出版した。ウォーレスは「自然選択による種の進化」の考えをダーウィンの功績に帰し、それを「ダーウィニズム」とよび、1889年には同名の著書を出版した。そのほか、生物の分布に関する研究でも大きな業績をあげ、オーストラリア区と東洋亜区との境界線であるウォーレス線(ワラス線)にその名をとどめている。進化論に関しては、のちに、人類の脳は自然選択の結果ではありえず、「なんらかの高度な知性存在が、人類の発達の過程を方向づけた」と結論して、ダーウィンと対立した。晩年は心霊術に凝り、また種痘には、動物の成分を人間に接種することは人間性に対する冒とくであるとして、反対を唱えた。
[八杉貞雄]
『ブラックマン著、羽田節子・新妻昭夫訳『ダーウィンに消された男』(1984・朝日新聞社)』
アメリカの政治家。アイオワ州生まれ。アイオワ州立大学卒業。ジャーナリスト、科学的農学者、哲学的神秘主義者であり中西部の進歩派を代表した。ルーズベルト政権の農務長官(2期)として農業調整法などニューディール農業政策を推進。第二次世界大戦時の副大統領(1941~1945)。1945年再転換期の商務長官としてリベラル急進勢力の中心にあったが、対ソ政策をめぐりトルーマン大統領と対立、1946年9月辞任した。その後『ニュー・リパブリック』編集長を経て進歩党を結成。国内改革と対ソ協調を訴え1948年大統領選挙に出馬したが惨敗。朝鮮戦争を契機に対ソ「宥和(ゆうわ)」を自己批判し、党首を辞した。
[牧野 裕]
アメリカの政治家。アラバマ州の農家に生まれ、1942年アラバマ大学卒業。同州地方検事補、州議会議員、地裁判事を経て、1963年州知事(民主党)に当選。1963年、州兵を動員しアラバマ大学への黒人学生入学を阻もうとしてケネディ政権と対立、南部政界内の極端な人種差別主義者として名をはせる。知事任期満了後(夫人が後継)は、ケネディ‐ジョンソン政権やリベラル派主導の対内宥和(ゆうわ)政策に反発を強め、1967年アメリカ独立党を結成、翌1968年大統領選挙に出馬した。その後、南部保守派への強い影響力を背景に州知事へ復帰(1971~1978)。1972年、1976年には南部民主党から大統領予備選挙に立候補した。1972年選挙運動中に狙撃(そげき)され下半身不随となった。
[牧野 裕]
アメリカ合衆国の政治家。アイオワ州生れ。農業新聞編集長として農民運動に参加していたが,1933年にF.D.ローズベルト大統領によって農務長官に任命され,ニューディール政策のもと,農業生産調整,小作農扶助等の執行にあたる。この間農業政策以外へも関心を広げ,大統領の強い意向で41年から副大統領に就任して民主党リベラル派の指導的政治家となるが,44年民主党全国大会でトルーマンに敗れ,翌年から商務長官に転ずる。トルーマン大統領の対ソビエト強硬外交を公然と批判して46年9月辞任,新たに結成された第三党の進歩党大統領候補として,米ソ協調を主張し共産党の支援も受けて48年選挙に出馬するが,2.4%の得票にとどまる。50年に政界から引退。戦後確立したアメリカの冷戦外交に代わる政策選択肢を,終戦後いち早く提唱した政治家として,アメリカ現代史上注目されることが多い。著書に《世界平和へ》(1948)などがある。
執筆者:久保 文明
アメリカ合衆国の政治家。農家に生まれアラバマ大学法学部を独力で卒業。第2次大戦後同州の政界に入る。州権主義と白人優越主義の固守を掲げて登場したアラバマ州知事(1963-67,71-79)。1963年知事就任式で〈今こそ人種差別を,明日もまた未来永劫に人種差別を!〉と叫び,当時もりあがった黒人闘争と連邦政府の人種的共学政策への反撃の先頭に立った。64年には反対党(共和党)の大統領候補ゴールドウォーターを支持し,68年には民主党を脱党して自らアメリカ独立党を結成して大統領選に出馬,一般票の13.6%を獲得する。得票数の7割は南部白人,3割は北部都市の白人低所得者層から投ぜられた。72年凶弾を受けて負傷し,大統領選出馬を断念する。
執筆者:中島 和子
イギリスの博物学者。動物地理学に興味をもち,昆虫学者のベイツH.W.Batesと南アメリカで採集を行う。1854年,マレー諸島で動物の地理的分布を調べ,〈ウォーレス線〉に名を残す。58年,《変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について》がC.ダーウィンの論文とともに発表され,自然淘汰による進化論の発見者となったが,後,ヒトの起源の問題で宗教的見解を支持した。著書として〈《マレー諸島》〉(1869),《ダーウィニズム》(1889)ほかがある。
執筆者:江上 生子
イギリス,中世スコットランドの政治的指導者。封建的上長であると主張するイングランド王エドワード1世に抵抗するスコットランド王ジョン・ベーリオルを支持。1297年スターリング・ブリッジでイングランド軍を撃破する。ジョンによりナイトに叙せられ,その〈後見人〉となった。98年フォルカークでエドワードに敗れてフランスに亡命。のち帰国するが,1305年イングランド軍に捕らえられ,ロンドンで処刑された。スコットランドの愛国的英雄である。
執筆者:飯島 啓二
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1888~1965
アメリカの政治家。進歩派民主党員。F.D.ローズヴェルト政権の農務長官,ついで副大統領。第二次世界大戦後トルーマン政権の反ソ政策を批判して,48年進歩党を結成して大統領選挙に出馬したが敗北。
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…生物進化のしくみの中で,最も重要なものと考えられている過程。C.ダーウィンとA.R.ウォーレスが1858年に提出した進化論における進化要因論の中心をなす概念であり,現代進化学においても重要な地位を占める。 今日,この言葉はいくつかの意味に用いられている。…
…
【ダーウィンの進化論】
C.ダーウィンが種の起原,つまり進化についての系統的研究を始めたのは,ビーグル号航海から帰った翌年の1837年,28歳のときであり,学説の骨格も早く成り立っていたが,公表されたのは58年7月1日のリンネ学会においてである。マレー諸島滞在中のA.R.ウォーレスから送られてきた論文が,ダーウィン自身の自然淘汰説と同趣旨であり,結局,両者の論文を同じ表題のもとにおいたジョイント・ペーパーとして発表することになったのであった。この論文はほとんど理解されず,ダーウィンが急ぎ自説をまとめた著作《種の起原》が,翌59年11月に刊行されて初めて思想界に風雲を巻き起こすことになった。…
…まず第1の定義はC.ダーウィンの学説ということだが,それにもかれの学説の中心であった自然淘汰説をさす場合と用不用説などを含めた学説全体をさす場合とがある。ダーウィンと同時に自然淘汰説を公にしたA.R.ウォーレスはのちに自著の表題を《ダーウィニズム》(1889)としたが,これは前者の場合にあたる。ダーウィニズムの語で進化論一般をさした場合もあり,とくに進化論が大きな思想的影響を与えつつあった時代には進軍の旗印の役もした。…
…当時は進化思想に対して世間が寛容でなかったため,十分説得力のある著作を出すことが必要であると感じ,大部な著作《自然淘汰》をまとめようとした。しかし,執筆の途中,1858年,マレー諸島のテルナテにいたA.R.ウォーレスから生存闘争と自然淘汰の考えによる種の問題に関する論文が送付されてきたため,執筆は中止された。そして地質学者ライエル,植物学者フッカーJ.D.Hookerらのはからいでダーウィンの未発表論文の一部とアメリカの植物学者A.グレーへの手紙が,ウォーレスの論文とともにロンドンのリンネ学会で発表され,自然淘汰説がはじめて世に出た(1858)。…
…現在では,ヨーロッパ,アジアとアフリカを含めて旧世界,南北アメリカは新世界と呼び,ユーラシア大陸は旧北区,北アメリカは新北区,両者を合わせて全北区とし,アフリカはエチオピア区,インド,南アジアは東洋区,南アメリカは新熱帯区,オーストラリアは太平洋諸島を含めてオーストラリア区と呼ぶのが一般的である。動物地理区分の提唱はスクレーターP.L.Sclaterの鳥類(1858),哺乳類(1894)についてのものが最初で,A.R.ウォーレス(1876),T.H.ハクスリー(1868)などが続いたが,いずれも鳥獣の分類地理学的な検討に基づくものであった(図1)。ダールF.Dahlなどによる生態的環境区分を考慮し,北極圏,南極圏などを認める方式も提唱された(1925)。…
…それゆえ,アイオワといえば農業もしくは農村を連想するのが一般的で,ソ連のフルシチョフが訪問した農場もアイオワであった。フーバー大統領とならんで州の生んだ最も著名な政治家が,ニューディール期に農務長官をつとめたH.A.ウォーレスであったことも,農業州を象徴している。【正井 泰夫】【岡田 泰男】。…
…第3は1948年,トルーマン・ドクトリンにみられる対ソ強硬路線に不満をもつ民主党員を中心に結党(進歩党と邦訳されることが多い)。ヘンリー・ウォーレスを大統領候補に立てて公民権法の成立やタフト=ハートリー法の撤廃を求めたが,大きな勢力にはいたらなかった。【青木 怜子】。…
…革新党とも訳される。1946年にトルーマン政権の商務長官の座を去ったH.A.ウォーレスが組織した〈アメリカの進歩的市民(PCA)〉を軸に,ニューディール左派,CIOの一部,全米有色人種向上協会(NAACP),全国農民連盟などの勢力を糾合。48年7月の党大会でみずからF.D.ローズベルトの掲げた理念の真の継承者たることを主張し,基幹産業の漸進的公有化,タフト=ハートリー法の撤廃,人種差別の廃止,対ソ平和外交の確立などを骨子とする綱領を採択,ウォーレスを大統領候補に指名した。…
※「ウォーレス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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