エパメイノンダス
Epameinōndas
[生]前410頃.テーベ
[没]前362. マンチネイア
古代ギリシア,テーベの将軍。エパミノンダスとも呼ばれる。前 370年代のテーベの台頭に貢献し,前 371年のレウクトラの戦いでは,当時の一般の戦法とは異なり,敵の右翼に対して戦列を極力厚く集中し,攻撃を浴びせる新戦法を案出してスパルタ軍を撃破。前 370~前 369年ペロポネソス半島に侵入し,メッセニア,アルカディアのスパルタからの独立を助けた。しかし前 362年同じ戦術を用いてマンチネイアの戦いで勝利を収めながらも,みずからは戦死。ギリシアの勢力地図を変え,スパルタの再興を阻み,その戦法は,当時人質となっていたフィリッポス2世に伝えられ,フィリッポスはそれをさらに改良し,その子アレクサンドロス3世 (大王) の軍事的勝利の道を切り開いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
エパメイノンダス
古代のギリシアの軍人,政治家。テーバイの勢力拡張に努めた。前371年レウクトラでスパルタ軍に大勝,以後テーバイはエパメイノンダス指導のもとにギリシアの覇権を得た。前362年マンティネイアでスパルタ軍を破ったが戦死。以後テーバイは衰亡。
→関連項目テーベ|ペロピダス
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
エパメイノンダス【Epameinōndas】
?‐前362
古代ギリシアの軍人,政治家。エパミノンダスともいう。テーバイの出身。友人ペロピダスと協力してテーバイの勃興に貢献した。ピタゴラス派の哲学を学んだこと以外,初期の経歴は不明。前371年,スパルタとの交渉でテーバイによるボイオティア支配の承認を迫って決裂,レウクトラの戦となる。彼はこの戦いに,従来の重装歩兵密集隊戦術に改良を加えて,左翼を厚くした〈斜線陣形〉を導入し,スパルタ軍を大敗させた。前370‐前369年にペロポネソス半島に侵入し,スパルタへ進出してヘイロータイ身分に落とされていたメッセニア人を解放し,メッセネ市を首都とする独立国家を樹立させた。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
エパメイノンダス
(Epameinōndas) 古代ギリシアのテーバイの将軍、政治家。斜線陣戦法を案出し、レウクトラの戦いでスパルタ軍を破る。すぐれた雄弁家でもあった。(前四一八頃‐前三六二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内のエパメイノンダスの言及
【テーベ】より
…ペロポネソス戦争中はスパルタの同盟国としてアテナイ打倒に貢献したが,戦果をめぐりスパルタと不和になり,コリントス戦争では反スパルタ連合側に加わった。いわゆる〈大王の和約〉成立(前386)後の前382年にスパルタはカドメイアを占領したが,3年後テーベの亡命者たちはその奪還に成功し,ペロピダス指揮のもとスパルタとの対立を深め,前371年のレウクトラの戦でエパメイノンダスの作戦によってスパルタ軍に勝利し,以後9年間テーベはギリシア世界の覇権を握ることとなった。エパメイノンダスは,メッセニアを数世紀にわたるスパルタ支配から解放して,メガロポリス建設を援助し,またアルカディア同盟を組織することによってスパルタの勢力失墜を決定的にした。…
【メガロポリス】より
…現在のメガロポリスMegalópolisの北方約1.8kmにある。スパルタに対抗するため,テーバイの将軍エパメイノンダスとアルカディアの住民が協力して,前368‐前367年に〈アルカディア同盟〉の首都として建設し,40の都市や町が植民に参加した。メガロポリスはテーバイやマケドニアと同盟関係にあり,後には〈アカイア同盟〉に加わった。…
【レウクトラの戦】より
…そこでスパルタ王クレオンブロトスKleombrotosはボイオティアに侵入してテーバイ近郊のレウクトラLeuktraに陣を敷いた。兵力はスパルタ同盟軍が優勢であったが,エパメイノンダスは新たに斜形陣と呼ばれる戦法を用いてスパルタ軍を破った。スパルタは王をはじめ市民兵に大打撃を蒙り,テーバイはこれを機にギリシアに覇を唱えた。…
※「エパメイノンダス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報