日本大百科全書(ニッポニカ)「エルベ川」の解説
エルベ川
えるべがわ
Elbe
チェコからドイツを経て、北海へ流れ込む川。チェコ語ではラベLabe川。流長1170キロメートル、うち947キロメートルが舟運可能。流域面積は約14万8000平方キロメートル、うち3分の1がチェコ、3分の2がドイツに属する。チェコとポーランドとの国境をなすスデティ(ドイツ語名ズデーテン)山脈の南斜面に源を発し、ボヘミア盆地の水を集め、エルツ山脈東方のエルプ砂岩山地を貫いてドイツに入り、北西へ流れ、ハンブルクを経てクックスハーフェンで北海に注ぐ。河口部は幅の広い三角江をなす。おもな支流は、チェコではブルタバ(ドイツ語名モルダウ)川、オフジェ川、ドイツではムルデ川、ザーレ川、ハーフェル川。本流に沿う主要都市はドレスデン、マクデブルク、ハンブルクなど。
チェコのコリーンから下流は船が通じ、ドイツでは運河により西方のウェーザー川、ライン川、東方のオーデル川と結ばれ、エルベ・トラーフェ運河(エルベ・リューベック運河)でバルト海とも結ばれている。したがって内陸交通路として重要な役割を果たしてきた。ハンブルクから下流は大洋航行船が上下し、河口のクックスハーフェン港はハンブルクの外港である。
[浮田典良]
歴史
カール大帝のザクセン征服により、カロリング帝国の東方国境はエルベ川と支流ザーレ川の線まで拡大され、以後10、11世紀を通じて、だいたいにおいてエルベ川がゲルマン人とスラブ人の居住地域の境界をなした。ザクセン朝、初期ザリエル朝の諸帝は、国境東方のウェンド人のキリスト教化と、その地域へのドイツの支配権の拡大を意図し、968年エルベ中流のマクデブルクに大司教座を置き、積極的な布教活動を展開した。またそれとともに、オットー1世はエルベ・ザーレ川とオーデル川に挟まれた地域に二つのマルク(辺境領)を設定し、ウェンド人からの貢租の徴収にあたらせた。これに抵抗してウェンド人は968年、1018年、1066年の三度にわたって反乱を起こし、エルベ以東のドイツの支配は崩壊した。1147年ハインリヒ獅子(しし)公の指導下に行われた対ウェンド人十字軍がウェンド人征服に成功した結果、エルベ川を越えてドイツ人の植民が本格的に開始された。植民活動の拠点となったのは都市の建設である。エルベ流域の主要都市には、河口付近のハンブルクや前述のマクデブルク、さらにドレスデンなどがあげられる。ハンブルクはリューベックと並んでハンザ同盟の指導的役割を果たし、マクデブルクも同盟の有力メンバーであった。ドレスデンはザクセン選帝公国の首府となり、18世紀前半のアウグスト2世のもとでヨーロッパ・バロック文化の一中心となったが、第二次世界大戦中、空襲により徹底的に破壊された。大戦末期、西から進んだアメリカ軍と、東から進んだソビエト軍とはエルベ中流のトルガウ付近で連係に成功し、互いに平和を誓い合った。これが「エルベの誓い」である。
[平城照介]