百科事典マイペディア の解説
カトリーヌ・ド・メディシス
→関連項目イタリア料理|シャルル[9世]|バレエ|ピロン|フランス料理|フランソア[2世]
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フランス国王アンリ2世の王妃。父はメディチ家のウルビーノ公ロレンツォ2世、母はフランス王家の血を引くマドレーヌ。1533年14歳のときオルレアン公(後のアンリ2世)と結婚し、10人の子宝に恵まれた。3人の国王と2人の王妃の母として、16世紀後半の政治と社会を大混乱に陥れた宗教戦争のなか、弱体化しつつあったバロア王家の権威の確立に寄与した。初期は寛容精神に基づく新教、旧教両派の協調の実現を目ざしたが、挫折(ざせつ)すると新教徒幹部の抹殺を企て、サン・バルテルミーの虐殺を引き起こした。彼女の個性は、美術、文化の領域でいかんなく発揮され、宮殿の造営に力を注ぎ、王権の高揚のため宴と祭りを頻繁に開催し、絵画や美術品の収集に専念し、歌謡、音楽、演劇を一つにしたバレエを創作して後のオペラの起源とした。現存の膨大な『書簡集』にその秀でた文章の資質を読み取れる。
[志垣嘉夫]
1519~89
フィレンツェのメディチ家の娘で,アンリ2世の妃。フランソワ2世,シャルル9世,アンリ3世の母でもあり,シャルル9世の摂政として新旧両教徒の均衡のうえに王権の安定を策したが,定見に欠けた。サン・バルテルミの虐殺の責任者の一人でもあった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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