カバルカンティ(その他表記)Alberto Cavalcanti

改訂新版 世界大百科事典 「カバルカンティ」の意味・わかりやすい解説

カバルカンティ
Alberto Cavalcanti
生没年:1897-1982

ブラジル出身の映画作家,プロデューサーシナリオライター美術監督。世界の映画史に残した足跡は大きく,まずフランスでは1920年代に,マルセル・レルビエ監督《人でなしの女》(1923),《生けるパスカル》(1925)の美術・セットデザイナーおよびアバンギャルド映画(《時の外何物もなし》1926,《港町にて》1928,等々)の監督として活躍,次いでイギリスでは,ロンドンのGPO(イギリス郵政局)映画班でジョン・グリアソンの片腕としてプロデューサー兼監督になり,《コール・フェイス》(1935),《北海》(1938)といった作品を撮って1930年代のイギリスのドキュメンタリー映画運動の一翼を担い,40年代にはイーリング撮影所でマイケル・バルコンの共同プロデューサー兼監督として,のちの〈ハマー・プロ〉の作品を予告するようなオムニバス構成の怪奇映画《真夜中》の〈もっとも身の毛のよだつ〉エピソード(《腹話術師のダミーとクリスマス・パーティー》)やディケンズ原作の《悪魔の寵児》(1946)をみずから撮る一方,イギリスの映画音楽の基礎をつくり(例えばベンジャミン・ブリテンといった現代音楽の作曲家を初めて映画に導く等々),49年には帰国してブラジル映画の復興に貢献し(1953年のカンヌ映画祭でアクション映画賞,音楽賞を受賞してブラジル映画の名声を国際的に高めた《野性の男》の製作に参加),その後,50年代半ばに再びヨーロッパに渡って,東ドイツオーストリア,イタリアで監督として活躍。東ドイツ映画《プンチラ親方と徒弟マッティ》(1955)は,原作者のベルトルト・ブレヒトと共同で脚色。ブレヒトが自分の戯曲(およびシナリオ)の映画化で唯一気に入っていた作品だったという。フランス時代はジャン・ルノアール親交を結び,初期の短編《可愛いリリー》(1928),《赤ずきんちゃん》(1929)にはルノアールと女優のカトリーヌ・エスラン夫妻が出演した。ルノアールがカトリーヌ・エスランと別れたあと再婚したディド夫人はカバルカンティの姪(めい)。
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カバルカンティ
Guido Cavalcanti
生没年:1255ころ-1300

イタリアの詩人教皇党に属するフィレンツェの貴族の家に生まれる。政争に巻き込まれ,1300年6月サルザーナに流謫の身となるが,急な病を得て同年8月フィレンツェで没した。いわゆる〈清新体〉派を代表する詩人の一人で,若きダンテも親しく兄事している。ソネットやバラータ,カンツォーネを含む50編余りの詩が残されており,愛の本質について哲学的思索をめぐらせた《貴婦人(きみ)我に乞いて》のような作品もあるが,愛を前にしておののく心の不安や内面の苦悩を,音楽性に富んだ語法を用いて歌い上げたものが多い。
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カバルカンティ
Emiliano di Cavalcanti
生没年:1897-1976

ブラジルの画家。1922年,現代美術週間を組織して同国の文化に衝撃を与えた。23年よりパリに滞在し,ピカソやマチスを知る。第2回サンパウロ・ビエンナーレ絵画部門グランプリ受賞(1953)。ブラジル・モダニズムの先駆者として知られ,洗練された具象フォルムにブラジルの風土を感じさせる泥臭い色を使っている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カバルカンティ」の意味・わかりやすい解説

カバルカンティ
かばるかんてぃ
Guido Cavalcanti
(1259ころ―1300)

イタリアの詩人。代々ゲルフ党(教皇派)に属するフィレンツェの名家の出身で、ダンテと親交を結び、現存する詩52編のなかには、ダンテやグイットーネ・ダレッツォに宛(あ)てられたソネット(十四行詩)も36編収められている。ダンテを除けば清新体派のもっとも重要な詩人で、ダンテ自ら『新生』をカバルカンティに捧(ささ)げている。ただし、カバルカンティは「愛(アモーレ)」のうちに至上の喜びと隣り合わせた死の存在を認めており、彼の作品にはつねに暗い影がつきまとっている。フィレンツェ市政の要職につき、ドナーティ家と鋭く対立して、1300年6月にはサラザーナに流刑されたが特赦によって2か月後にフィレンツェに帰り、その年のうちに没した。

[河島英昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カバルカンティ」の意味・わかりやすい解説

カバルカンティ
Cavalcanti, Guido

[生]1255頃.フィレンツェ
[没]1300. フィレンツェ
イタリアの詩人。「清新体」派の代表者の一人で,ダンテの最良の友。『ある女性われに乞うて』 Donna me prega,『われ思いもかけずに』 Io non pensavoなどの詩篇が代表作。その詩は 1527年に最初に集められたが,現在入手可能な版には N.アルノーネ編『カバルカンティ詩集』 Le rime di G. Cavalcanti (1881) がある。また D.G.ロセッティ,E.パウンドらによって英訳され親しまれた。

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世界大百科事典(旧版)内のカバルカンティの言及

【アバンギャルド】より

…ルイ・デリュック(1890‐1924)によれば,それは〈余計なイメージもなく,セットもなく,無用の人物あるいはシーンもない単純な美しい線のなかに,ただ映画にのみあたえられ,奉仕しそして表現する能力のあるあらゆる手段によって,感情や感覚を映像化する映画〉である。こうしてダダイストの詩人で画家でもあるフランシス・ピヤビアの脚本によるルネ・クレール監督の《幕間》(1924)をはじめ,F.レジェの《バレエ・メカニック》(1924),M.デュシャンの《アネミック・シネマ》(1925),《アブストラクト》(1927),ブラジル生れの美術家アルベルト・カバルカンティ(1897‐1981)の《時のほか何物もなし》(1926),マン・レイの《エマク・バキア》(1927),《ひとで》(1928),A.アルトーのシナリオによるジェルメーヌ・デュラック監督の《貝殻と僧侶》(1928),ブニュエルとダリの《アンダルシアの犬》(1929),ジャン・ビゴの《ニースについて》(1929)等々,きわめて意欲的・革新的な短編が,次々とつくられた。 こうした短編映画のみならず,この時期のフランスの代表的長編映画,デュラック《スペインの祭》(1919),デリュック《狂熱》(1921),J.エプスタン《アッシャー家の末裔》(1928),A.ガンス《鉄路の白薔薇》(1923),J.ルノアール《水の娘》(1924)等を〈アバンギャルド〉の流れの中に一括する見解もある。…

【イギリス映画】より

…戦後イギリス映画の黄金時代の底を流れるものはドキュメンタリー精神であるとはどの映画史家も指摘するところだが(それは1950年代半ばから60年代にかけてのいわゆる〈フリー・シネマ〉の〈環境のリアリズム〉にまでつながる),そのドキュメンタリー的方法による劇映画を一貫して送り出し,〈イギリス映画のもっとも内容豊富な撮影所の一つ〉となったのがイーリング撮影所であった。フランスの〈アバンギャルド〉映画運動を経てグリアソンの運動に参加していたA.カバルカンティ(1897‐1981)をプロデューサーとして招き,若手の映画作家にドキュメンタリー映画や,ドキュメンタリー手法による劇映画を作るチャンスを与えて育てたのもイーリング撮影所であった。カバルカンティの製作による,H.ワット監督《992飛行中隊》(1940)やC.フレンド監督《消防夫はフランスに行った》(1942)から戦後のワット監督のオーストラリア・ロケによる《オーバーランダース》(1946),街頭や波止場にカメラをもち出したB.ディアデン監督《兇弾》(1949),《波止場の弾痕》(1951),イースト・エンドの生活を描いたR.ヘイマー監督《日曜はいつも雨降り》(1947),フレンド監督のノルウェー・ロケによる《南極のスコット》(1948),洋上の戦艦にカメラをもち込んだ《怒りの海》(1953)等々。…

【映画美術】より

… 一方,第1次大戦直後のヨーロッパにおける表現主義,シュルレアリスムなどの画家たちの映画美術への協力は,かならずしも映画的造形性を探究するものではなく,あくまでも過渡的なものとみなされるべきであろう。《カリガリ博士》(1920)におけるH.ワルムスとW.レーリッヒ,M.レルビエ監督《人でなしの女》(1923)におけるR.マレ・ステバンやF.レジェらの画家,建築家たちの仕事は映画的である以前に装飾的であり,それが真に映画的な効果をもつには,《人でなしの女》の美術に参加したもう1人の装置家であり,レルビエ監督の《生けるパスカル》(1925)の美術を担当し,美術監督の先駆者でもあり,〈プロダクション・デザイン〉の初期的実践者でもあるアルベルト・カバルカンティの才能を通過しなければならなかった。カバルカンティが,のちにイギリスでドキュメンタリー映画の製作者・監督となることが示しているように,映画美術は装飾ではなく,画面全体を決定する本質的な要素であり作品の質そのものに関するものであった。…

【ドキュメンタリー映画】より

… ドイツでは,いわゆる〈クルトゥールフィルムKulturfilm〉(〈文化映画〉と訳されて日本語に定着している)がつくられ,なかでもワルター・ルットマンの《伯林――大都会交響楽》(1927)や《世界のメロディ》(1929)は,ベルトフの〈映画眼〉理論の〈リズムのモンタージュ〉に影響された代表的な長編ドキュメンタリーである。 フランスのドキュメンタリーは,20年代に純粋な視覚的表現を意図した芸術運動である〈アバンギャルド映画〉と密接なかかわりをもっているが,アルベルト・カバルカンティの《時の外何物もなし》(1926)やジャン・エプスタンの《地の果て》(1929)などがつくられた。 オランダではヨリス・イベンスの《雨》(1929),スペインではルイス・ブニュエルの《糧なき土地》(1930),ベルギーではアンリ・ストルクの《無名兵士の物語》(1930)といった,今日〈名作〉として知られるドキュメンタリーがつくられている。…

【ラテン・アメリカ映画】より

… なお,メキシコ出身で国際的に知られた俳優としては,ハリウッドで活躍した美人女優ドロレス・デル・リオ,性格俳優ペドロ・アルメンダリス,肉体派女優マリア・フェリックス,個性的な脇役として活躍した女優カティ・フラド,それに〈メキシコのチャップリン〉といわれたカンティンフラスがいる。
[ブラジル映画]
 世界の映画史にブラジル映画が加わるのは,1953年,リーマ・バレットLima Barreto(1905‐ )監督《野性の男》(1952)がカンヌ映画祭で注目を浴びてからだが,その興隆の立役者は,フランスのアバンギャルド映画から出発してイギリスのドキュメンタリー映画運動をへて帰国したアルベルト・カバルカンティであった。《野性の男》の企画・製作に加わったカバルカンティは,次いで若い映画作家を育成するために挺身し,国立映画協会の設立と映画助成金制度の設置に貢献した。…

【イタリア文学】より

…ジャコモ・ダ・レンティーニは十四行詩のなかで〈愛とは喜びのあまり/心からあふれでる願い〉と歌い,これを受けて〈清新体〉派の先駆者グイード・グイニツェリGuido Guinizelli(1230‐76)は〈やさしい心につねに愛は宿る〉と書いた。けれどもダンテは《神曲》煉獄編第11歌において,このグイードから別のグイード(カバルカンティ)が詩の栄光を奪い,さらに両者を蹴落とす者(ダンテ自身)が現れたことを述べている。この自負は,〈愛〉をめぐる詩法の転換に基づいている。…

※「カバルカンティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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